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なっぴが神であることを証明するスレ
0001名無し48さん(仮名)垢版2023/05/15(月) 20:45:31.24ID:4ZLd07jl
なっぴは偉大なり
0028カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 11:52:43.85ID:4YTMCWwb
しかし、そこにはなお多くのものが、聞かれず、発見されずに残っているということが、この著作を書き上げたときにわたしには明らかになった。
だからこの著作は、もはや協力を求めるための予備的著作以上のものであることを求めない。
まさに、多くの、はるかに適任の人たちが現われて、この同じ場所に水脈を掘りあてるよう協力してくれればと思う。
0029カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 11:54:40.11ID:4YTMCWwb
だがもし、聖書が告げる音信を、新しく、共に問いかけ、また研究することへの喜びに満ちた希望がわたしの考え違いであるならば、この書物は、時が──来るのを待たねばならない。
言うまでもなくローマ書そのものも、時の来るのを待っている。
0030名無し48さん(仮名)垢版2023/05/17(水) 12:13:30.29ID:+3YDVb5E
プロテスタント神学か?
0031カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 13:07:40.45ID:4YTMCWwb
第一章 導入部

キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の救いの音信のために選び分けられたパウロから──この音信は、神が、その預言者たちにより聖書の中でその子について論じつつ、古くから宣べ伝えさせたものである。その子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者たちの中からのかれの復活により、力強く神の子と定められた。──この音信は、われわれの主イエス・キリストに関するものである。
0032カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 13:10:24.99ID:4YTMCWwb
われわれは、その名の栄光のために、救いの音信において確証されている神の真実にすべての民を服従させるために、かれによって恵みと使徒の務めとを受けたのであり、あなたがたもまた、かれらの中にあって、イエス・キリストによって召された者として存在するのである──このパウロから、ローマにいる、すべての神に愛され、聖さへと召された者たちへ。われわれの父なる神および主イエス・キリストからの恵みと平和とが、あなたがたにあるように。
0033カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 13:25:52.20ID:4YTMCWwb
「キリスト・イエスの僕、召されて使徒となったパウロ」。ここで語り始めようとしているのは、「自分の創作に熱中している天才ではなく」、かれの委託に縛られている使者である。
一人の主人ではなく、僕であり、王の派遣した使節である。
たとえパウロが、自らなろうとするものとなったとしても、かれの使命の内容は、その究極の根拠からいって、かれの中にはなく、かれを越えた、克服しがたい異質のものの中に、すなわち、到達不可能なかなたにある。
0034カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 13:29:13.34ID:4YTMCWwb
かれは、その使徒職を、かれ自身の生涯の展開の一時期として意識することはできない。
「使徒職とは、その生涯の最初と最後の瞬間に、かれ自身との人格的同一性を持たない逆説的事実である」。
かれは、かれ自身であり、またあり続ける。
0035カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 13:31:50.72ID:4YTMCWwb
すべての人間は、かれと本質的にほとんど同じである。
しかしかれは同時に、かれ自身と矛盾して、また他のすべての人間と区別されて、神によって召され、派遣されている。
それでは一人のファリサイ人なのであろうか。
0036カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 13:33:02.14ID:4YTMCWwb
そうだ、より高級なものではあるがファリサイ人、すなわち、「選び分けられた者」、孤立した者、異なった者である。
すべての人と同列であり、すべての点で他と変わりなく、ただ神との関係においてのみ独自な人間である。
まさに、その歴史的現実における人間社会に対して秩序立った関係を持たない使徒として、またその点からみれば、むしろ例外者としてのみ可能な、つまりまさに不可能な現象である。
0037カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 13:37:37.11ID:4YTMCWwb
このかれの立場の正当さと、かれの語る言葉の信頼性とは神に基づいている。
これらのものは、神自身と同様、直接認めることはできない。
まさにそれゆえに、かれは自分を鼻にかけ、他人の感情を害するのではないかという気遣いなしに、他人にも近づき、聞くことを要求する勇気を持つのである。
かれが神自身の権威にのみ訴えることができ、またそれのみに訴えようとすることが、まさにかれに権威を与えるのである。
0038カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 22:43:06.99ID:4YTMCWwb
「神の救いの音信」をパウロは伝えなければならない。
全く新しく、いまだかつて聞いたこともないほど善い、喜ばしい神の真理を人々に手渡すのである。
だが、それはまさに神の真理なのだ。
0039カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 22:50:25.48ID:4YTMCWwb
つまり、それは決して宗教的な音信、人間の神性や神格化についての情報や指令ではなくて、全く他なるものとしての神、人間が人間であるかぎり何も知ることができないであろう神、そしてまさにそれゆえに、人間に救済を与える神についての音信である。
したがって、直接理解されるべき、一回限りで把握されるべき、他の事物と並ぶ事物の一つではなく、常に新しく恐れとおののきをもって聞きとられるべき、常に新しく語られるからこそあらゆる事物の根源である言葉である。
したがって、体験、経験、感覚ではなく、その最高のものであるとしても、目もまだ見たことがなく、耳もまだ聞いたことのないものについての率直で、客観的な認識である。
0040名無し48さん(仮名)垢版2023/05/17(水) 22:53:30.65ID:Vnu1XC8F
自称優良ヲタのコピペ爺さんよ 早く反論しろよ
0041カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 22:56:12.70ID:4YTMCWwb
だが、したがってまた、注意するだけでなく参加をも期待し、知解だけでなく深い理解をも期待し、共感のみならず協力をも期待する知らせなのであり、信仰を生み出すことによって、神ヘの、神そのものへの信仰を前提する知らせなのである。
それがまさに、神についての音信であるからこそ、「古くから宣べ伝えられた」のであり、それだからこそ今日の思いつきではなく、歴史の意味、その実りの収穫、永遠の種子としての時間の果実、預言の成就である。
それは、古くから預言者たちが語ってきた言葉であり、今聞き取ることのできるものとなり、また聞き取られる言葉なのである。
0042カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 23:27:12.59ID:4YTMCWwb
それは、使徒に委託された救いの音信の本質であり、同時にかれの語る言葉の保証であり、それが受ける批判でもある。
すなわち、預言者たちの言葉、ながく保管されていた言葉、その言葉が今語るのである。
すなわち、エレミヤ、ヨブ、コヘレトの言葉が古くから宣べ伝えていたことが、今聞かれる。
0043カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 23:34:13.97ID:4YTMCWwb
われわれは書かれていることを、今や見、また理解することができる。
つまり、われわれは、今や「旧約聖書全体への入り口」を持っている。
したがってここで語る者は、明白なものとなり、理解可能となった歴史の基礎の上に立つ。「かれはただちに革新者としての栄誉を謝絶する」。
0044カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/17(水) 23:56:05.20ID:4YTMCWwb
「われわれの主イエス・キリスト」。
それが救いの音信であり、それが歴史の意味である。
この名において二つの世界が出会い、別れ、既知の平面と未知の平面の二つの平面が交わる。
既知の平面とは、神によって創られたが、その根源的な神との一致から脱落し、そのために救いを必要とする「肉」の世界、人間と時間と事物との世界、つまりわれわれの世界である。
0045カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 00:02:33.30ID:4c/2RVxk
この既知の平面が、もう一つの別な未知の平面によって、父の世界、すなわち、根源的な創造と究極的な救いの世界によって切断されるのである。
しかし、われわれと神との、この世界と神の世界とのこの関係は認識されることを求める。
両者の間の切断線を見ることは、自明のことではない。
0046カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 00:10:59.92ID:4c/2RVxk
見られるはずの、また現に見られる切断線上の一点が、イエスであり、ナザレのイエス、「歴史的」イエス、「肉によればダビデの子孫から生まれた」イエスである。

歴史的規定としての「イエス」とは、われわれにとって既知の世界と未知の世界との間にある断絶点を意味する。
時間、事物、人間は、われわれにとって既知の世界のこの点において、それら自身としては、他の時間、事物、人間より優れているわけではないが、時と永遠、事物と根源、人間と神とを分ける隠れた切断線を見うるようにするあの一点を限定するかぎりにおいて、優れている。
0047カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 00:29:10.53ID:4c/2RVxk
したがって、紀元一年から三〇年までが、啓示の時、発見の時である。
ダビデをふりかえっていることからも分かるように、その時はすべての時間の新しい、別種の、神的な規定が認められる時間であり、時はどの時も啓示の時、発見の時となりうるかも知れない可能性をその時が開いているのであるから、他の時間そのものの中におけるその時間の特殊性を、またもや廃棄する時間でもある。
しかし切断線上のあの一点そのものは、その点がその存在を告げる未知の平面全体と同様、われわれにとって既知の平面上には全く広がりを持たない。
0048カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 00:43:36.33ID:4c/2RVxk
あの一点が歴史的可視性の範囲内で認められるようになるあの輝きあるいはむしろあの驚くべき弾孔と空洞は、たとえそれが「イエスの生涯」と呼ばれるとしても、イエスにおいてわれわれの世界と接触するあの他なる世界ではない。
そしてこのわれわれの世界も、イエスにおいてあの他なる世界によって接触されるかぎり、歴史的、時間的、事物的、直接可視的であることを止める。
イエスは「かれの死者たちの中からの復活により、力強く神の子と定められた」。
0049カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 00:46:02.65ID:4c/2RVxk
かれがこのように定められたということがイエスの真の意味であるが、もちろんそれをそのまま、全く歴史的に規定すべきではない。
キリスト、すなわち、メシアとしてのイエスは、時の終わりである。
かれは、ただ逆説(キルケゴール)としてのみ、勝利者(ブルームハルト)としてのみ、原歴史(オーヴァーベック)としてのみ理解されるべきである。
0050カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 00:47:42.07ID:4c/2RVxk
キリストとしてのイエスは、われわれにとって既知の平面を上から垂直に切断する、われわれにとって未知の平面である。
キリストとしてのイエスは、歴史的可視性の範囲内では、ただ問題としてのみ、ただ神話としてのみ理解されうる。
キリストとしてのイエスは、歴史的可視性の範囲内ではわれわれは何も知りえず、何かを知ることもないであろうあの父の世界をもたらす。
0051名無し48さん(仮名)垢版2023/05/18(木) 10:37:37.42ID:FBaeXLkw
>>11
https://i.imgur.com/5xc6jgX.jpg
なっぴがきつね顔はねーよなぁと思って
何顔なのか動物顔診断するサイトで調べてみたんだよ
そしたら二番目にそっくりなのがゴリラっていうのが出てきて
それが凄くしっくりきた
ネコっぽい可愛い動物にゴリラが入ってる顔なんだよ
0052カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 12:50:54.30ID:4c/2RVxk
しかし死者からの復活は、転回点であり、上からあの一点を「定めること」であり、それと対応した下からの洞察である。
復活は啓示であり、キリストとしてのイエスの発見であり、神の出現とイエスにおける神の認識であり、神に栄光を帰し、イエスにおいて未知の者、見えざる者〔との出会い〕を予期する必然性の介入、イエスを時の終わりとして、逆説として、原歴史として、勝利者として承認する必然性の介入である。
0053カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 13:01:42.96ID:4c/2RVxk
復活において、聖霊の新しい世界が肉の古い世界と接触する。
しかしそれはまさに、接線が円に接するように、接触することなしに接する。
まさに接触しないことによって、その限界として、新しい世界として接する。
0054カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 13:03:12.07ID:4c/2RVxk
このようにして復活は、そこで「介入し」、発見され、認識されたかぎりにおいて、紀元三〇年にエルサレムの城門の外で起こった出来事である。
そして復活は、その必然性、出現、啓示があの介入、発見、認識によって制約されているのではなく、むしろそれらを制約するものであるかぎり、またしても全くそのような出来事ではない。
イエスが自己を啓示し、メシアとして発見されるかぎり、もちろんかれはすでに復活日の前に「神の子と定められた」のであるから、復活日の後にもまた確かに神の子である。
0055カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/18(木) 13:29:12.85ID:4c/2RVxk
これがイエスの意味である。
すなわち、人の子を神の子と定めることが。
このように神の子と定めることを度外視しては、そのことは重要であってもなくても、すべての時間的なもの、事物的なもの、人間的なものそのものと、差異はないのである。
0056カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/19(金) 16:29:16.28ID:48swZcON
「わたしたちは肉に従ってキリストを知っていたとしても、今もうそのように知ろうとはしません」〔コリント第二書五・一六〕。
かれが過去においてそうであったことによって、かれは現在ある。
しかし、かれが現在あることによって、かれが過去にあったものは捨て去られる。
0057カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/19(金) 16:31:34.41ID:48swZcON
神と人との結婚や融合などは、ここでは成立しない。
人間が神的なものに飛躍したり、神が人間的なものの中に流入したりはしない。
むしろ、われわれに接触しないことによって、キリストであるイエスにおいてわれわれに接するのは、創造者、救済者である神の国である。
0058カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/19(金) 16:35:12.18ID:48swZcON
この国は現実的なものとなった。この国は近づいた(三・二一以下)。
このようなイエス・キリストが「われわれの主」である。
世界とわれわれの生の中にかれが現臨することによって、われわれは人間としては廃棄され、神の中に基礎づけられ、かれを仰ぎ見ることによって静止状態に置かれまた動かされて、待ちつつ、急ぎつつある者※である。


※待ちつつ、急ぎつつある者
井上良雄によると、ブルームハルト父子の町であるバート・ボルの療養所の玄関正面上にレリーフでWとPが掲げられている。
これは、ここを設立したヴィルヘルム一世の頭文字Wとその妻パウリーネのPを刻んだものであったが、ブルームハルトはこれを「待つ」(warten)と「急ぐ」(pressieren)と読み、これを「神の日の来るのを待ち望み……早めるようにすべきです」(ペトロ第二書三・一二)と結びつけて、自らのモットーにした。バルトはこのブルームハルト父子から決定的な影響を受けた。
0059カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/19(金) 16:39:44.08ID:48swZcON
かれがパウロとローマ人たちの上に主として立つからこそ、「神」はローマ書においては空虚な言葉ではない。
0060カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/19(金) 16:42:00.51ID:48swZcON
イエス・キリストから受けたパウロの「恵みと使徒の務め」。
恵みとは、神が一人の人間に好意を持ち、人間が神にあって喜びうるという不可解な事実である。
それが不可解なものとして理解されるときにのみ、恵みは恵みである。
0061カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/19(金) 16:45:38.28ID:48swZcON
だからこそ、神と人間との距離を引き裂くことによってそれを乗り越えるキリストからの贈物として、恵みは復活の反照の中にのみ存在する。
しかし神は人間をはるかかなたから認め、神が人間によってその計り知ることのできない高さにおいて認識されることによって、人間は、人間仲間に対し「使者」として必ず関係する。
「わたしは強制されている。もし救いの音信を告げ知らせないなら、わたしは不幸である」(コリント第一書九・一六)。
0062名無し48さん(仮名)垢版2023/05/19(金) 17:45:35.83ID:deG2Nstc
>>57
>人間が神的なものに飛躍したり、神が人間的なものの中に流入したりはしない。
>人間が神的なものに飛躍したり、神が人間的なものの中に流入したりはしない。
>人間が神的なものに飛躍したり、神が人間的なものの中に流入したりはしない。


なっぴが神ではないことが証明されたわけだが
0063カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/19(金) 19:52:22.97ID:48swZcON
パウロと他のキリスト者との相違は、程度の差でしかない。
キリストの恵みのあるところでは、人間はどれほど大きいためらいと懐疑を持っていたとしても、すべての時代と事物の転回点の告知に、すなわち、復活の告知に参与する。
人間にとって、世界の現存在は、人間がそれと取り組まなければならない問題となり、神の現存在は、人間がそれのために戦わなければならない希望となる。
0064カール・バルト「ローマ書講解」(平成20年11月平凡社 刊)より引用垢版2023/05/19(金) 19:55:58.54ID:48swZcON
人間の確信を貫き、広めることが問題なのではなく、人間がキリストにおいて出会った神の真実、人間がその真実を知ったことにより、応答真実(※)を尽す責任を負ったその神の真実を証言することが問題なのである。
このような人間の応答真実、すなわち、恵みを受け止める信仰は、当然従順への要求でもあり、その要求はまた他の人間にも向けられるものである。
このような人間の応答真実、すなわち、恵みを受け止める信仰は、当然従順への要求でもあり、その要求はまた他の人間にも向けられるものである。この要求は、呼びかけ、照明を当て、揺り起こす。

(※)応答真実
この語は本書「神の真実」(Treue Gottes)に対応するものとしての「(人間の)神に対する応答の真実」という意味で、バルトは、あえて「応答真実」(Gegentreue)という言葉を用いた。
この言葉は、その後も繰り返して用いられ、『教会教義学』とくにその『和解論』の巻にもよく用いられている。
0065名無し48さん(仮名)垢版2023/05/19(金) 23:36:00.66ID:48swZcON
皆様へ

私どもは常に明確で正確な情報を提供することが重要であると認識しておりますが、今回はその責任を果たせなかったことを認めます。誤解を招くような表現がありましたことに心からお詫び申し上げます。

私どもは今後、より注意深く情報を精査し、誤解を招く可能性のある表現や情報の発信を避けるよう努めてまいります。
皆様に対しては、信頼性の高い情報を提供し、誤解を招かないようなコミュニケーションを心掛けることをお約束いたします。

再度、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ありませんでした。皆様のご理解とお許しをいただけますよう、お願い申し上げます。

心より謝罪申し上げます。
0066名無し48さん(仮名)垢版2023/05/20(土) 00:13:49.97ID:nLdeToDb
伝統宗教においては神は超越的であり、人間を超えた存在とされています。
そのため、人間を神格化することは神の特権や領域に干渉する行為とみなされるものでありました。

また、個人が過度に崇拝されると、その人物に対して偏った信仰や盲目的な忠誠心が生まれる場合があり、その結果としてバランスを欠いた信仰体系や社会的な問題が生じることも考慮すべきでありました。

したがいまして、今後一切「なっぴは神である」等との表現は致しません事をお約束申し上げます。

誠に申し訳ございませんでした。
0067名無し48さん(仮名)垢版2023/06/01(木) 22:09:40.40ID:GtZIMjwx
なっぴ信徒の大精神

『戰陣訓』


日本男兒と 生まれ來て
戰さの場に 立つからは
名をこそ惜しめ 武士よ
散るべき時に 淸く散り
御國に薰れ 櫻花

情けに厚き 丈夫も
正しき劍 とる時は
千萬人も 辭するなし
信ずる者は 常に勝ち
皇師に向かう 敵あらじ

五條の訓 かしこみて
戰野に屍 さらすこそ
武人の覺悟 昔より
一髮 土に殘さずも
譽れになんの 悔やある

山ぬく威武も 驕るなく
海をも出ずる 陣をもち
つらぬく大義 三千年
大和心の ひと筋は
これ皇軍の 大精神
0068名無し48さん(仮名)垢版2023/06/11(日) 13:57:31.86ID:HZWHSBRU
飽きてて草
こういうスレは飽きて止めるのが一番面白くないやろ
スレ完走するまでキチガイ演じ続けろや
0069名無し48さん(仮名)垢版2023/06/11(日) 16:18:55.05ID:zfxnbDSP
>>68
>>57で結論が出ちゃった

>人間が神的なものに飛躍したり、神が人間的なものの中に流入したりはしない。
0070名無し48さん(仮名)垢版2023/07/05(水) 20:38:54.63ID:NRZXyJ2Z
 









          H      K     T





          完   全   終   了








 
0071名無し48さん(仮名)垢版2023/07/06(木) 01:18:41.25ID:N1WpVfp+
>>70
基地外wwwwwwwwwwwww
0073名無し48さん(仮名)垢版2023/09/03(日) 22:39:51.49ID:Qeiyo83U
卒業まであと1ヶ月
なっぴはHKTいや世界のポップスター史に名を残した
一日一日が過ぎていくのが本当に惜しい
0074名無し48さん(仮名)垢版2023/09/17(日) 19:47:11.15ID:XPLvxUpI
神 は 死 ん だ
0075名無し48さん(仮名)垢版2023/09/18(月) 03:32:42.53ID:MTKyhPPo
なっぴは永遠に生き続ける
0077名無し48さん(仮名)垢版2023/09/24(日) 14:07:50.74ID:LH/aIxSV
呼吸の病気と闘い続けるなっぴ様
神の加護を
0078名無し48さん(仮名)垢版2023/10/31(火) 00:47:23.01ID:lzMlqX0w
私たちの生命は周囲の環境に応じて、さまざまな状態やはたらきをします。
ちょうど透明な水の入ったコップが周囲の物や光によって色が変化するようなものです。
「朱に交われば赤くなる」という言葉も、周囲の縁によって感応する私たちの生命のはたらきを指したものでありましょう。

信仰は〝信ずること〟であり、〝礼拝すること〟なのですから、
単に交わるとか尊敬する状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる結果や報いは、人生に大きな影響を与えることになります。

いいかえれば、信仰における礼拝は、その対象たる本尊に衆生の生命が強く感化されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈に働きかけ、影響を与えるものはないのです。

いかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、
その本尊や教えに感応して、次第にその人は濁った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。

たとえば「稻荷」と称してキツネを拝んでいると、
本尊のキツネの生命に、その人の畜生界の生命が感応して、その人の性格や行動、さらには人相まで似てきます。

本来ならば過去と将来を考え、理性をもって生きるはずの人間が、
畜生を拝むことによって計画性や道徳心が欠落し、人間失格の人生に変わってゆくのです。
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