生きることを強制される社会
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小学2〜3年で初めて死にたいと思い、以後中高の6年間、幾度となく自殺未遂を繰り返してきました。年に一度は入院するため、学校は休みがちでした。今でこそ落ち着きましたが、衝動的に死にたくなる波が来ることはあります。 幸いなことに、友人には恵まれていました。本当にいい人たちです。でもだからこそ、対照的に自分が社会のエラーであることを強く意識してしまいます。 エラーは取り除かなければなりません。社会を一つの生き物とみればこうした存在はアポトーシスするべきとさえ思います。すなわち、僕は自分の認識の中で存在していないことになるのです。 現実にはそんなことはありません。僕の体は現にここにあります。これでは気持ち悪いのでどちらかを一方にすり合わせる必要があります。僕は現実の方を、認識に合わせて歪めようとしていました。 つまり、僕が死にたかった理由の一つは、認識と現実の齟齬を埋めるためだったのです。 しかし、そもそもなぜエラーは取り除かなければならないのでしょうか。これは母体たる社会、全体の保護です。非常にファッショな考え方ですし、場合によっては炎上しかねない発言ですが、反面、日本社会はこれを暗黙の了解としているフシがあります。 コミュ力のない人間は爪弾きにあって様々な局面で難儀します。大企業はペナルティを支払って障害のある人を雇用しません。学歴やお金のない人は不当な扱いを受けることが少なくありません。 どれも全体を優先し、運営の妨げとなるものをエラーとみなして切り捨てた結果です。 宗教観の薄い時代だと言われています。だからなおさら生きる意味、生きたい動機は見いだしづらい。むしろ「お前なんていらない」と言われるのが現代です。 しかし同時に、死にたいとも言えない。生きる明確な目標は示せないくせに、死ぬことは盲目的に反対される。 基本、死ぬことは悪いことだと考えられています。試しにGoogleで「死にたい」と検索してみてください。死にたいと思っていること、辛いと感じていることを否定されている気分になります。社会全体の倫理観を押し付けられ、個人の否定をされているみたいです。 エラーだっていいじゃないですか。劣っていたっていいじゃないですか。もっと個人本位に生きたい。 本当に死んでしまうことには簡単に賛同はしかねますが、自由に死にたいと言える環境、またそのような人を包容できる柔軟な社会が欲しいです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています