毒親持ちの元親友が多分siんでる話。
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誰に話す気にもならないが、溜め込んでるよりは書き捨てたほうがまだしも供養になるかもしれない。 そいつの親から鬼電かかったけど無視。
非情と思われようと、もう関わり合いになりたくない。 そいつは、もう何年も拒食症かなんかなのか、骨と皮だけのガリガリで、
死相が出てるというか、もう長くないだろうなって思ってた。
余りの痩せ方に周りが心配してなにか食べろと進めても水の一滴すら口にしなかった。 ウチの親がそいつを指して「あれじゃきっとセイリも来てないと思うわ」
とか言うのにも、行き場のないモヤモヤ。
ウチの親は、そいつもそいつの母親のことも嫌っているが、
しかし、私とそいつが小学校の六年間ベッタリの親友だったのは、
私とそいつが似た者同士だったからだ。 小学校ではじめてそいつに会ったとき、
同じグループの子からぽっちゃりだからボチャ、みたいなニックネームで呼ばれていた。
でも、別にそんなに太ってたわけでもなかったように思う。
それより、真っ黒でまっすぐでツヤツヤの長い髪をしていて、
綺麗で羨ましくて、もうやめてと言われるまでしつこく触らせてもらったような記憶がある。
さらさらと指から髪が流れていく感触がどうしようもなく心を惹きつけて離さなかった。
私は、天パだったし髪を伸ばしたことがなかった。
小学校も中学校も、ずっと短髪だった。髪が肩にかかったことは一度もない。
私の母親は「子供の髪は短いものなの」という絶対のルールを持っていて、
泣こうが喚こうが逃げようが、最後には床屋の椅子に座らせられた。
今でも私は美容院がキライだ。 そいつも、小学校の入学時にはロングヘアだったはずなのだが、
二年生になる前には短髪になっていた。
ツヤツヤ過ぎてリアルに天使の輪ができていた、
日本人形みたいなキレイな髪だったので、
どうして切っちゃったのと惜しがって何度も聞いたけど、
そいつがなんて応えたかは覚えてない。
でも、そいつとつるんでいるあいだずっと、
小学校でも中学校でも、そいつはもうずっと同じ短さに髪を揃えていた。
私は、高校に入ってからはどうにか髪を伸ばすことが出来た。
親の意向を無視することができるようになった。
高校卒業して、服も自分で選ぶようになった。
でもそいつは、大学の時も、成人式の時も、最後に会った時も、
小学校のころとまったく同じ、短い髪をしていた。 髪型だけじゃなくて、
そいつは成人式にもチェックのスーツみたいな服を着ていた。
周りじゅう華やかな振袖だらけのなかで。
誰も表立って虐めたり笑ったりはしなかったけど、
なんだか異様というかヒソヒソはしていた気がする。
今だったら、性の多様性ってことでスルーなんだろうけど、
でも、あれはそういうのじゃなかったと思う。
皆はそう思ったかもしれないけど。
私とそいつは、母親による女性性の抑圧、を受けていたんだと思う。 そいつの親よりは私の親のほうがいくらかマシではあった。
そいつは母親に虐めころされたも同然だけど、
私はまだ生きている。髪を伸ばし、好きな服を選ぶ。
ヒールと化粧は覚えなかったけれど、まあそれはいい。
私は成人式や卒業式では着物を与えてもらえた。
私の母は矛盾した信条というか、
娘の髪を結うことは一度もなかったが、
ピアノを習わせたり、フランス人形を買い与えたり、籐家具を与えたりした。
全部嫌だったけど、多分母自身が子供のころ欲しかったものなんだろう。
あ、ピアノは祖母が孫娘に買いたいというから、じゃあ習わせようってことだったのかな。
まあ、ウチはその程度だったけど、
そいつの家、そいつの部屋に遊びに行ったとき、
所謂女の子らしいものは何もなかったような気がするのだ。
ウチと違って、どこもかしこもさっぱりと片付いていた。 そいつの母親は、いつ見てもそいつとまったく同じ短い髪型で、
GジャンにGパンという恰好だった気がする。
バイクとサッカー観戦と甲斐バンドだかが趣味だと言っていた。
私とそいつは、程々に外遊びなどもしたが、
ずっと机でイラストを描いてるようなオタク気質だった。 毎週少年ジャンプの話をしていたような気がする。
家にない本や図書館の児童書以外の本を読むようになったのは、そいつが教えてくれたからだ。
星新一とか筒井康隆とか。
私の母は、皮肉な作風、ひねくれた作風が嫌だと言ったけど、
本を取り上げたりはしなかった。
「あんたは可愛げがない、態度がかわいくない」とかは、よく言われたが。 そいつとは小学校を挟んで家が反対方向だったので、
放課後は違う女の子と遊ぶことが多かった。
三姉妹の末っ子の子や、地元のパチ屋の子とよく遊んだ。
そういう子は、少年ジャンプじゃなくて、りぼんやなかよしを読んでいた。
ぬいぐるみをたくさんもっていて、男性アイドルや流行りの歌の話をした。
その子たちは髪型をしょっちゅう変えていて、かわいい髪飾りを持っていた。
悪気なく「あなたも髪を伸ばしたらかわいいのに」と言った。
遊びで私の髪を梳いて、結ってくれた。
その子たちのことが嫌いではなかったけれど、
ずっと一緒にいると、多分私は羨ましくて辛かった。
私と同じに、ずっと髪を短く切られていて、
スカートを持っていないそいつと一緒にいるとラクだった。
母親に疑問や不満を抱かなくて済んだ。 そいつは、成績も良く、イラストもかわいらしかった。
中学からは疎遠になったので伝え聞きだが、
旧帝大に行ったらしい。マイナー学部だったらしいが。
ググッたら、そいつのホームページがまだ残っている。
今だったらピクシブやってたんだろうが、当時はあれが流行りだったものだ。
日記もあるが、悩みや病気、内面に関することは何も書かれていない。
家族の仲良し面白エピソードが書かれている。 中学から疎遠になったし、
高校は別だったので、その頃のことは知らないけど。
私もそいつも、大学進学で地元を出た。
それで一度偶然、帰省の電車で会ったのだが。
後ろ姿を見た時、「ずいぶん髪のきれいなおばあさんがいるな・・・?」と思った。
小柄なのはアレだが、ファッションがおかしかったんだと思う。
ぶかぶかのメンズのウインドブレーカーか何かを着ていて、
息子の服を頓着なく着ちゃう系のおばさんっぽかったのかな。 成人式のスーツもそうだけど、
ほんとにメンズの服しか持ってなかったのかな。
小柄だったけど、デブとかブスってことはなかったと思う。
縄文系というか、小動物系というか目がくりっと大きかった。
髪質も恵まれてるし、手入れすればそれなりに映えた容貌だったはずだ。
面食いの自分が毎日見ても不快ではなかった。
でも、そういえば、
そいつの母親は、私とそいつが並んでいるのを見て、
我が娘の不器量さを嘲笑ったっけな。
「お前は顔がでかいねえww」みたいな。
その時の、居心地の悪い気持ちはよく覚えている。
私の隣で、私の友人が、私をダシに、実の親に貶められている。
いや、地獄かよ。
しどろもどろになにかフォローをしたような気もする。
私のほうがずっと成績が悪いですし、とか。
いやそれフォローか?まあもう記憶が定かでもないけど。 私の母親は、子供の頃は頑として私の髪を切り続け、
髪を伸ばしたいという私の希望は却下され続け、
その経緯から、ずっと抑圧や自己否定が鬱陶しく付きまとっているが、
まあ、高校以降はほぼそういう行為は無かった。
進学も希望通り、金銭的にも十分にしてもらえた。
流行りの服を買うこともできたし、
趣味や私生活に口出しされることもなかった。
周囲の友人から学んで少しづつ、女性らしく装うことを覚えていった。
オタク気質は生来のもので変わらなかったが、脱・喪女はそれなりに出来た。
そいつは多分、そうではなかった。
大学行って、一人暮らしはできていたのかもしれないが、
母親の束縛や支配を内面化してしまってたのかもしれない。
心の中の母親が、そいつの髪を切り続けていたのかもしれない。 昨今の性の多様化からすると、
そいつの髪型、服装、趣味嗜好はそれほど奇異なものでもない。
肉体的に女性でも、精神的には男性だとか珍しい話でもない。
そいつが自発的に、自然に、ただ好きで、
髪を短くし、メンズの服を着て、ミリタリーやバイクやサッカーを愛していたなら、
それはそれで良かった。
そいつの母親は、そういう姿でピンピンしている。
でも、そいつは多分そうではなかった。
生来の女らしさを抑圧され、取り上げられ、
そしてそれが自分だと思い込まされていた。
母親が間違っていると気がついてはいけなかった。
コンフリクトがあって、それが体に出た。
病名は知らないが、拒食でなければああはならないって気もする。 大学を出て、就職して、
そういえば携帯のアドレスや番号の交換をいつしたのか記憶にないが、
就職先のイベントを新聞か何かで見たと、そいつは私に会いにきた。
私としては、髪を切られ続け男子のような恰好をしていた時代の記憶ごとまとめて、
そいつのことは思いだしたくない相手だった。
折角小奇麗になることを覚えたのだ。
陽キャグループに入ってしまえば、
陰キャ時代の友人は格下であり、根深い陰キャコンプを刺激する見たくないモノになる。
仕事時間内は客としてもてなしたが、
プライベートで会いなおしたりはしなかった。
そいつも空気を読んだのか、
それても痩せこけてしまって遊びに繰り出す体力はなかったのか、
節度を持って訪れ、帰ってくれた。 しかし、一度ならず数回ほどそいつはイベントに客としてやってきた。
ヒマだったので話をしたが、内容はほぼ覚えていない。
ああ、人混みでぶつかられてコケて顔ぶつけて、総入れ歯になった話だけは、
インパクト強烈過ぎて覚えてるけど。ドン引きしたわ。
いや、その若さでそうはならんやろ・・・っていう。
転んで受け身をとれないことにしろ、骨密度にしろ、
もう回復不能の分水嶺越えちゃってるな、もう死ぬんだろうな、と思ってしまった。
しかし、そんな話をそいつは世間話、笑い話のトーンで話した。ような気がする。 私になにかを聞いて欲しくて訪れていたのかもしれないが、
私が迷惑そうにしていたから切り出せなかったのかもしれないし、
物知りで成績優秀者だったプライドが邪魔をして切り出せなかったのかもしれないし、
同伴していた母親や、周りの人間が気になって突っ込んだ話ができなかったのかもしれない。
しかし、そいつが自分の日記にさえ書けないことを人に相談できたかというと、
できなかったかもな。
藁にも縋る思いだったかもしれないが、
疎遠になった旧交を温めに来るより、
「毒になる親」系の本でも買ってみて
カウンセリングとか行けたら、生き残る道があったかもしれない。 というか、そいつは自分が病んでいる原因が母親だと疑ったことがあっただろうか?
気がつきたくないまま、気がつかないまま、体力が落ち、考える力もなくして死んだのだろうか。
いや、そういえば鬼電がかかってきたから訃報と決めつけているが、
フツーに峠を越して生きてるのかもしれないな。
もう、それを知りたいとも思わないのだが。 >>21
ありがとう。
私はもうそいつにしてやれることは何もないけど、
誰かに読んでもらえると、少し罪悪感がまぎれる。 当時は何とも思わなかったが、
今にして思い当たることがある。
そいつの家に遊びに行ったことは何度もある。
ある時、家の一番奥の和室に入った。
そいつの家は新築っぽい戸建てで、
いつ行ってもチリひとつなく、
家主の趣味っぽいものや生活感もあまりなかったのだが、
その一番奥の部屋は、なんとなく雰囲気が違った。
仏壇があったかはちょっと記憶にないんだけど、
仏間っていう感じとも違った。
そこだけ畳ってだけじゃなくて、
木の箪笥とか、ガラス箱に入った置物とか、なんかそういうのがあった。
「この部屋なに?」って聞くと、
「お祖母ちゃんの部屋だった」って言う。 父方の祖母か、母方の祖母かはわからないけど、
確かになんとなく、ばあちゃんっぽい趣味のものが残っていた。
そいつの家は、そいつと弟の私室も二階にあって、
家族構成が決まってから建てられた家っぽい。
同居の祖母がいつ亡くなったのか、
それは、そいつが髪を切った時期と同じなんじゃないか、と思う。 ここからは推測でしかないけど。
そいつの父母は両方ともバイクやサッカーが趣味だった。
趣味を通じて成立したカップルのような気がする。
そいつの母親は、
短髪なのもスカート履かないのも男性的な趣味なのも、
生来の気質によるものだったのだろう。
一方で、そいつの祖母はフツーの女性的な人だった。
そいつが髪を伸ばしていたのは、
「女の子は、女の子らしく」というような
祖母の意向が反映されていたのだ。
でも、祖母が死んで、
娘の教育方針には母親の意向が強く反映されるようになった。
髪は弟と同じように短く切られ、ジーパンや少年ジャンプが与えられた。 そいつの母親も、少数派というか理解されにくく生きにくい嗜好を持った人だったとは思う。
いわゆるジェンダー、「女性らしさ」のようなものへの反発があったかもしれない。
髪を長くするのが嫌で、スカートやヒールが嫌で、化粧が嫌で、
サッカーやバイクやデニムが好きで。
そんな女性がいること自体は、好きにしてくれと思うばかりだが。
しかし、自分の生き方を肯定したいがために、
定型発達の女子だった自分の子に、
性的マイノリティの自分と同じ価値観を植え付けた結果、
洗脳とコントロールで娘を自分のコピーにしようとした結果が、
娘は男性経験のひとつもないまま痩せ細って死んだっていう、
そういうことなんじゃないのか。 推測でしかないけどな。
もうそれを確かめる機会がくることはない。
多分そいつは母親を恨んでも憎んでもいなかっただろう。
自分の性が撓められていることに、気がついていなかった。
ストレスで体が悲鳴をあげているのに、サインを発してるのに、
それを真剣に受けとめてなかった。
優しい人が体調を気遣っても「ちょっとね」って言ってヘラヘラしていた。
薬の量をアレだ。ミサワの寝てない自慢みたいな。
「薬がいっぱいでつれーわww」って、いやなんも可笑しくねえから。
ま、人のことは言えないんだけど。
誰にも言えなくて、笑って誤魔化して、棚上げして、先送りにして、
それでどうにかその日一日やり過ごして、
人の見てないところでのたうちまわって生きてる。
みんなそんなもんなんじゃないの? 私のウチも、そいつのウチも、母と娘が一人に、後は父と男兄弟の家族構成で、
男兄弟と同じように育てられることに疑問を抱きにくかったと思う。
兄弟たちは短髪に異論はない。
毎月グズグズ床屋に行きたがらないのは私だけだ。 何年か前に、母親に「子供の髪は短いものなの」という、
交渉の余地のない不動のルールの出所を聞いたことがあるが、
「私もそのように育てられ、そういうものだと思い込んでいた」ということだった。
つまり祖母の時代ってーと戦後の?
シラミ避けに頭にDDTをぶっかけてたような、
衛生環境の整ってない時代のルールだったんだろうか。
それをアップデートしないまま、
しかも小学校高学年とか自分で髪を梳いて結える年齢に達しても
頑として譲らなかったっていうのは、異議と異論しかないけど。
しかし思いだしてみれば、祖母も母親も、髪型は記憶にある限りショートカット一択だ。
私の母親は、祖母の刷り込みを未だに保持し続けている。もう死ぬまであの髪型だろう。
和解は無理案件だなw
ただ、私には三姉妹の末っ子の友達や、親戚のお姉さんと接する機会があった。
彼女たちの色んな髪型に、かわいいヘアゴムに憧れた。「いいなあ、お姫様みたい」って言った。
彼女たちは「あなたも伸ばしたらいいよ、癖っ毛でもかわいいよ」と言ってくれた。
家に帰って母親にそれを訴えるのは無駄だったけど。
彼女たちの言葉は心に焼き付いて忘れられなかった。
手は勝手に長い髪に長い裾のお姫様みたいな絵を描いた。
そいつには、そういう縁がなかったのかもしれない。
母親以外の女性との交流が希薄だったのかもしれない。
私もあんな風になりたいっていうイメージを持てなかったのかもしれない。 そいつの親も、私の親も、当時あの地域の社会通念からすると、
娘にまで大学教育を受けさせるというのはずいぶん立派な親だったと思う。
新規分譲地を買って新築の家を建てて、旦那はサラリーマンで嫁は専業主婦で、
当時の勝ち組の暮らしぶりに見えていたとも思う。
三姉妹の末っ子ちゃんは、地元で代々の小さな商店の子で、店と家は同じ敷地内だった。
店で仕事してるおじさんおばさんじいちゃんに挨拶して、縁側にいるばあちゃんに時々小遣いもらって、
表の店で駄菓子を買って、二階の部屋にあがってそれを食べながら、ままごとをした。
彼女は成績優秀だったけど家の経済面を考慮して、商業高校行って短大行って、
すぐ結婚してインスタで映える子育てをしている。
あの地域で最もスタンダードな女の成功コースというかw
成績では図れない賢さ、末っ子的な世渡りの賢さとはああいうものか、とも思う。
喪女過ぎてマウント取られたこともあるし、
今となってはインスタ民の感性とも分かり合えないのだが、
基本的にマトモで善人だった彼女が近所の同級生で幸運だったな、と思う。
暮らし方の違いを肌で経験できたのは、
その後、私が育った家庭を客観的に見る際に役に立っていたはずだ。 >>31
ありがとう。
>>20で一応書ききった感があって、
後はレスが嬉しくて書いてる蛇足だから、適当に飽きてくれ。 しかし、マトモで善人ということなら、私の母親もそうではあった。
だから、私は長いこと母親を疑うことができなかった。
髪を切る、というのは傷害罪がつく暴力だと見做されることがあるけど、
その知識と、母親のルールの記憶と、いつも感じている自己否定感がずっと結びつかなかった。
母親は「子供の髪は短いものなの」以外なら、話が通じないことはなかったし、
汚い言葉は使わないし、手を挙げられたこともほぼない。
衣食住はほぼ過不足なく与えられて、
子供はみんな五体満足で成長した。
外で稼ぐ父親は、家事育児は女の仕事と思っていたので、
ADHD気味の母親はいつもタスクが満杯で疲れきっていた。
それはウチの母親だけじゃなくて、
分譲地を買って越してくる若い夫婦、核家族なんてのは、
地域との繋がりがなくて、子育てが母親と子だけの密室になりやすいんだと思う。 私の母親は、時々そいつと遊ばないように、
というようなことを遠回しに仄めかしてきた。
「お母さんあの子のことあまり好きじゃないのよね」とか
「あなたがあの子の子分みたいというか、影響を受け過ぎてると思うの」とか
「あの子、嘘つきよ」とか
まあ、どれもその通りではあったのだが、
しかし私はどうしてもそいつと離れることが出来なかった。
同病相憐れむというか、共依存的だった。
私は地域の新規参入者であり、モノを知らない子供だったので、
そいつの物知りに感銘を受けてばかりだったと思う。
小学生の無知も物知りも、今思えば他愛もないけど。
そして、私がそいつに教えを乞う、という構図は
そいつの虚言癖を助長させてもいただろう。 嘘つき、虚言癖というけど、
私にはそいつの嘘を見抜けたことがないので、実のところはよくわからない。
今でも私はそういうのにすごく鈍いと思う。
人の裏の顔みたいなものを直感できない。
知識や類推で補おうとし続けているのだが、
スキャンダルがあればいつも「まさかあの人が」と驚く側だ。
そいつには虚言のほかにも、演技性障害っぽいというか、
オタクあるあるだけど、身振りがコミカル過ぎておかしいところがあった。
人指し指をたてて小首をかしげるとか。
ポージングが漫画的に決まり過ぎっていうか。
まあ小学生当時のことで、
再会した頃には、もうそんな余計な体力はないようだったが。
そいつの家族で、そんなジェスチャーを身につけてるのはそいつだけだったように思う。 演技性、演じる。
ボーイッシュで頭脳明晰な。
母親に望まれる自分を演じ、より自然に演じるため、演じていること自体を忘れて。
そいつが早熟だったのは、
多分そうでなくてはあの母親のもとでは生き残れなかったからだろう。
母親のニーズを察知し、母親を肯定するべく振る舞わなくてはならなかった。
かわいいもの、長い髪、スカート、ピンクのもの、少女漫画、セーラームーン、ぬいぐるみ、
母親が嫌悪するものを、先んじて「そんなものいらない、好きじゃない」と言えば、
母親は「おまえはやっぱり私の娘だね」と喜ぶ。愛情を獲得できる。
そいつは小柄過ぎて、練習してもバイクには乗れなかったらしいのだが、
その時、あの母親がどんなふうに娘を嘲ったか想像がつく。
短足だチビだと言って笑ったんだろう。 そいつは早熟で成績優秀だったが、
しかし私と比べれば誰もが早熟で優秀だったような気もする。
私は落ちこぼれというか、極端に無知というか。
たとえば、小学校に入学したとき、
周りの子は当たり前に1年何組というプレートを読んで移動し、
自分の名札が貼ってある席に着席したのだが、
私にはそれができなかった。
他の子の名前を読むこともできず、
適当な席に座って、周りを当惑させた。
時計を読むことも、自分の名前を漢字で書くこともできなかったように思う。
ものすごく字がヘタというか、ひらがなすら書けないものがあった。
知的にアレというより、机に向かって学習するという行動様式がまるきりなかった。 母親は「勉強は学校で教えてくれるものだと思っていた」という。
母親も大概世間知らずというか、
明文化されてないことをまるで想像しないアスペなところがあるというか。
下の弟が病気だったりして私に構ってる余裕がなかったりもしたのだろうが。
ウチは両親ともに高学歴なのだが、両親ともにそういう傾向がある。
流行りの学習机のフルセットを買い与え、
本棚にはブリタニカだかの百科事典や、伝記や文学全集が詰まっていたが、
本棚のガラス戸は閉じられ、洗濯物や漫画やオモチャが前に積まれていた。
両親は、我が娘の成績の悪さに驚き、
個人塾のようなところや、家庭教師をつけるなど、色んな対策をした。
が、机に向かって学習するということ、
それ自体に馴染めなかった小学校時代の成績はどう足掻いてもギリ健並みだった。 授業中でも家でも、机と紙と鉛筆があれば落書きばかりしていた。
イラストを描くことは、私の親にも、そいつの親にもない趣味で、
私達にとってそれだけは強制されない表現の場だったと思う。
私の親は、漫画であれば私がいつまでも読んでいることに気がつき、
まんがことわざ辞典とか、まんがでわかる○○系の本を色々買ってくれた。
教育漫画つながりで、ドラえもんの単行本なんかも買ってもらえた。
それらを見て、私もそいつもノートに四コマ漫画を書くようになったのだが、
ドラえもんの漫画で、ママがのび太に説教する場面、
あのパターンを棒人間のキャラで繰り返すというのが主な内容だった。
ガミガミクドクドイビイビ、という擬音ばかりで、
母親のキャラクターが包丁持ってキレる爆破オチが定番だった。 実際の母親が包丁を持ち出したことはないはずだが、
漫画のなかでは、背後は燃えるわツノは生えるわ巨大化するわコマを破って追いかけてくるわ。
だんだんエスカレートして完全にモンスターとして描かれていたような覚えがある。
私の四コマでは父親役をどう動かしていいのかわからず、ほぼ登場しなかったが、
そいつの漫画では、主人公の息子と一緒に虐げられているキャラクターだった。
ボッコボコの血まみれでくたばっている息子と父役のキャラを描いて、
私達はケラケラ笑っていた。
連載は長期化し、何年もそればかり描いたノートは束になって溜まった。
私のは、まだ探せばどこかに残っているかもしれないが、
そいつのは、あの片付け好きの母が捨ててしまったかもしれない。
そのノートを人に見せたこともそれなりにあったと思う。
親戚や友人に、時々それを覚えている人がいるから。
でも誰も私たちが抱えている問題には気がつかなかった。
親も、教師も、親戚も、私達自身も。 中学に上がって、四コマ漫画はやめた。
棒人間から表現が進化しなかったし、やり尽くしてマンネリだった。
それで捌け口を失くしたせいか、私はひどい劣等感や自殺衝動に苦しむようになった。
美術部に出入りし、そいつに教わったコピックを揃えてイラストなどは続けていたのだが。
そいつは、部活に入らず塾で勉強していた。
努力しているのに一番になれないことに腹を立てていた。 中学校でも、トップになる子はどこか飛びぬけているというか、
努力とか成績とかそういうレベルじゃない頭のいい人間というのはいるものだ。
トップの子はいかにも賢そうというか、
生徒会長になるような周囲の人望に篤いショートカットの女子で、
それもそいつの苛立ちを募らせたかもしれない。
上位互換が登場すれば、自分の存在意義が危ういよな。
女子力マイナスの私達はスクールカーストの底辺だった。
幸いなことに、いじめられたりはしなかったが。 クラス替えもあり、勉強で忙しいそいつとはだんだん疎遠になった。
そのころ、将来の夢とか進路志望の話で、
そいつは「医大に行って、青年海外協力隊になりたい」と言ってたな。
アホの私は、「それ何?」だったが。
そいつのイラストには、銃火器やミリジャケが描かれるようになった。 女性で小柄で運動部経験もなくて、弱者に優しいなんてガラでもなかった。
誰が見ても適性のない進路で、内申稼ぎか中二病かと思われてただろうが。
戦場や難民キャンプにシンパシーを感じるほど、
そいつの内面、心象風景はそのくらい荒れ果てていたのかもしれない。
あの母親も、娘が息子のようでありさえすれば良くて、
海外とか、人類愛とか、そんな風に子が自分より立派だなんて不快だろうし、お前には無理だと笑いそう。 あるいは、ただ手に職つけて、
国から、家から、母親から逃げたくて、ただ遠くに行きたいという無意識の選択だったのかもな。
そこから先は、知らない。
いつまでも成績底辺のくせに、本だけは読んでそいつの博識を崇めなくなった私は、
そいつにとって付き合う価値がなくなったんだと思う。
県で一番の進学校に行って、
旧帝大に行ったらしいけど、
そいつは結局、どこにも行けなかった。
一緒に暮らしてるという母親に伴われて、惨めな骸骨のような姿で、私に会いに来た。
夢も希望も救いもない、最悪の気分だ。
そいつが生きてるか死んでるか、知りたくもない。
誰でもいい、ここまで読んでくれたなら同じ痛みがあるのかもしれない。
親を疑い、自分を愛してほしい。 わかる
帝大行ってもキャリアとして出世しなけりゃ意味がない
出世できないなら帝京大出身で社長やってるやつのほうがよっぽど偉い >>46
ありがとう。
そうな。
頭が良くても、より良く生きるために使えなきゃ意味がない。
本を読む習慣があったのに、ネットスキルがあったのに、
毒になる親、毒親、モンペ、搾取子、機能不全家庭、色んな言葉が流行ったのに。
いつでも気がついて、変わっていってよかったのに。
テストの点や学歴は、そいつを救わなかった。
賢さ、聡さってそんなんじゃないんだな。 俺はその友人程優れた学力があった訳じゃないしあなたのような行動力も決してなかったが、親に対する複雑な思いなどに共感出来る部分が多々あったわ
高校の頃に運が悪ければ後遺症が残りかねないような転倒事故を起こしたり、どんなに叱られようと従量性だった携帯電話の通信費が毎月数万円請求されるのを繰り返してたんだけど、無意識に自分の問題を誰かに気づいて欲しいと思ってやったことなのかもしれない
親を憎んでる訳じゃないんだよ、ただ自分の歪んだ認知を人に強制してくるのだけは止めて欲しかった >>48
ありがとう。
とにかく生きてて、考えてて、話せるってだけで、
そいつにはもう望めない可能性、変わっていける時間が、
私にもあなたにもまだあるんだなって思う。
あなたが生きていてよかった。話してくれてよかった。
私はそいつにも生き残って、
自分のことを自分の言葉で語れるようになって欲しかったんだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています