昭和天皇御発言録

(日中戦争時の宜昌作戦の際の発言)
「宜昌など不要ではないのか。」
この御言葉により陸軍は宜昌から撤退を開始するがその直後、
「宜昌はやはり重慶無差別爆撃のために必要だろう。」
とあっさりと方針を変えられてしまい、撤退開始中に止む無く攻撃を再開し多数の死傷者を出すはめになる。

(シンガポール陥落の際の発言)
「次々に戦果が挙がるについても、木戸には度々言うようだけど、
全く最初に慎重に十分研究したからだとつくづく思う。」
木戸とは木戸幸一内大臣のこと。A級戦犯として訴追され、わずか1票差で死刑を免れた。
東京裁判における「国民の戦意を低下させるべく自分も陛下も毎日努力してました!」という迷言で
判事達を絶句させた。

(ガダルカナル作戦中の発言)
「近頃我が戦果挙がざる傾向があるがどうしたのか。」
「マレーやチモール方面の航空隊を転用するか。」←←←
「米軍の反攻が厳しくなりつつある現情勢に於いて、南方から兵引き抜いてもいいのか。」←←←
2つめの御言葉により第二次ソロモン海戦を戦い消耗した一航戦・翔鶴艦載機部隊(新郷英城少佐指揮)を8/28にブカ基地に派遣、
更にソロモン方面に航空戦力を注ぎ込み9/25までには零戦100、一式陸攻80まで増強。次に10/23に機関故障した二航戦・飛鷹の艦載機部隊をラバウル基地に派遣などするが大敗。

(ガダルカナル撤退を認めた後の発言)
「ただガ島攻略をやめただけでは承知し難い。←←←
どこかで攻勢にでなければならない。どこかで積極作戦を行えぬか。」←←←
この御言葉を受け、丁度ダンピール海峡の悲劇(ビスマルク海海戦)が起きた直後であり、
山本五十六は基地航空隊(十一航艦)だけでなく南太平洋海戦で壊滅して再編成中の連合艦隊決戦戦力たる一航戦、二航戦をつぎ込んでソロモン・ニューギニアにおける一大航空撃滅戦である「い」号作戦を立案するも、
戦果少なく一航戦、二航戦はまたもや大打撃を受け、ついでに山本は伏兵にあい無事死亡する。

(沖縄戦で昭和天皇が期待した水際防衛(ギルバート諸島、マリアナ諸島で大失敗した)で大打撃を与え、講和しようとすること(一撃講和論)に反し、
現地の第32軍がペリリュー、硫黄島で効果が立証された遅滞・持久により本土決戦戦備の時間を稼ぎつつ、米軍に可能な限りの出血を強要する戦術を採ることに苛立ち発言)
「此戦が不利なれば陸海軍は国民の信頼を失ひ今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか。←←←
兵力足らざれば逆上陸をやってはどうか。」←←←
流石に参謀本部、軍令部から絶対的制海権制空権が敵にあるのに、逆上陸(米軍の上陸地点に本土から出撃して突撃、強襲上陸して背後から攻撃すること。)なんて無謀ですと必死に諫言され渋々諦める。
しかし、参謀本部から陛下の希望(積極攻撃)を伝えられた第32軍司令官牛島満中将は持久戦方針を変換、総攻撃を決定してしまい見事に大失敗。大損害をうけた。

(戦後)
「私はなにもできなかった。作戦指導とかやってない、軍が勝手にやってただけ。私に責任はない。」