「自己肯定感」て、なんやと思う?

「ドキュン」て呼ばれる人らおるやんか。リア充ウェーィ系のああいう人ら。
一見自己肯定感溢れてるように見えて、そんなもん実は一つも持ってないねん。あの子ら。

個人としての社会的な力はあの子らには無いの、見てわかるやろ?
あの子らなんでいつも群れとるか知っとるか?ある意味、家畜化された人間やさけ、群れとらんとあかんねん。

群れて自分らの存在を示してるわけや。でもそれはかりそめの「自己肯定感」なんや。

これがネットの世界になると更にコトは深刻になってくんねん。

匿名掲示板でお仲間ごっこ的な書き込みに興じてるアホ見たことあるやろ?
アホなこと言うて他の人から茶々入れられたり間違いを指摘されても、不思議とタイミングよく「お仲間」が擁護してくれる。

「お仲間」言うても、その正体は携帯電話やスマホなんかの「別端末」だったりするんやけどなw

結局、どこまでいっても一人前の自立した大人になれへんやつの成れの果てやねん。


ああいう子は、忍び寄る「変化」「未知」「自分の世界の崩壊」に対してはメッサ敏感やねん。
怖いからそれから逃げるかのように逆上し、反発するねん。
「お仲間」を総動員してリンチを演出したりもしてるわな。

こういう子らは真に「自己肯定感」を持ってへんねん。
自分でインターネットの世界環境に線引きをして自分らのテリトリーを主張し、この線の中がかりそめ天国であり
その天国でのみ「自己肯定感」を持てるだけやねん。

あの子らは、願わくば未来永劫この生活が続くことを祈りよるけど、そんなに世の中甘うないさけな。
「デジカメで撮った画像」「スクリーンショット」みたいなもんでも「証拠」の代わりになりマウンティングできた時代はとうに終わってる。
全ては変化すんねや。ほんで変化に適応できず取り残されたもんは絶滅の危機に直面し、そして、どこかの時点で淘汰されていくのや。

最後に・・・
では本当の「自己肯定感」て何や?て話やな。
仏陀が亡くなる前、弟子が「お釈迦様が亡くなられた後、どう生きれば良いのか分からない」と訴えるのに対してこう言わはったそうや。
「自灯明法灯明」
「法(仏の教え、今なら智慧)を灯として闇を歩め。自(自分)を灯として闇を歩め」
つまり、群れや物や地位やそう言うものに依存せず、自分を信じ、自分の智慧を頼りに生きろということやねん。
それができる人が真の「自己肯定感」を持っていると言うことなんやで。