もっとも、小倉という街の空気もあるだろう。
私が子どもの頃は戦後の混乱期でもあり、まだ炭鉱労働者や沖仲仕もたくさんいて、それはにぎやかで熱気があった。
ガラが悪いともいえるが、八幡製鉄所から続く北九州工業地帯も高度成長を支えることになる。

もちろん、戦争で親を亡くしたりした貧しい子どもたちもたくさんいた。
工藤會のメンバーも、故・溝下秀男御大をはじめとして、大半は貧困家庭の出身である。
こうした子どもたちが食っていくために何でもやるのは、いたしかたないことでもあった。