あのな当時、山田編集長の月刊フルコンタクトKARATE誌で
台湾の中国神龍タンソータオから縁を切って
日本支部が【中国武術鴻龍会】として独立。とゆう記事が大々的に出たんだよ。しかも新体道に千賀式呼吸法を教えた江上派松濤会出身の千賀先生が主催者だしな。
当時、太気拳竹田塾では打撃組手は禁止になってたんで太気からの出稽古って形で半年間通って
合宿や大会(第0回ドラゴン杯)まで出たんだが
ところが大会の貴賓席に縁を切ったはずの台湾から
許鴻基の末息子がゲストに呼ばれてんのを見て
(なんだ!台湾と縁を切って独立したってゆうのは
結局、山田編集長がオレを大会におびきだすための嘘だったのか!)
と悟り、半年で辞めた。