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すすを感じる
0001名無しさん2020/02/11(火) 12:44:24.51ID:hC7SDIQn0
これは買い時
0002名無しさん2020/02/18(火) 18:17:20.93ID:Sq3gF1RL0
確かに
0003名無しさん2020/02/18(火) 18:17:20.93ID:UUgUUJKK0
確かに
0004!omikuji2021/01/15(金) 23:21:29.94ID:pQnZ7rKM0
テストテスト
0005名無しさん2021/03/16(火) 11:24:14.31ID:Rc9paVq+0
すす。

それはジブリ映画の黒ちゃん

猫のバスを走らせ となりのトトロを産んだ。本名真っ黒クロスケだった。
0006名無しさん2021/03/16(火) 11:30:31.16ID:Rc9paVq+0
クロスケは山を超え海を渡り大地を走る

クロスケは野に降り注ぎ 海に流れ 地中深く眠る

目覚めれば 赤い紅蓮の炎となって文明を支えた。

おお愛しき相棒よ 君がまだ生まれる前は 大きな緑の大地だったね。

恐竜が戯れ 海獣が踊り そこかしこが泳げないほどの毒に染まった世界だったね。
0007名無しさん2021/03/24(水) 12:49:57.62ID:ONtj34wB0
郷土の歴史 ・・・・31

日本で農業に貢献した朝鮮人は、美作国東南条郡東一宮村(岡山県津山市東一宮)に
存在した。『史学雑誌』8編11号には、同村の中島氏所蔵文書が紹介されている。
 私の五代前の先祖は、朝鮮国松村の出身でございます。文禄年中に日本が朝鮮に攻め
込んだ際、先祖は中島孫左衛門様の陣中に人質となり、二十四歳にして日本に渡海した
。助命のことを孫左衛門が仰せになり、先祖は弥三郎と名を改め、中島家譜代の家来に
なりました。生涯にわたり養育してくださり、妻子なども扶助していただき、嫡子・彦
兵衛と私に至るまで四代にわたり相続し、一類や分家も家が繁盛していることは、すべ
て中島家の御恩であることを今もって忘れることはできません。私の子孫代々まで申し
伝え、決して忘れることはございません。・・・と書き送っている。戦国時代を起こし
た鉄砲伝来と宣教師の奴隷貿易は布教と共に全国に広がって、筑後では5分の1ぐらい
減っただろうと言われる。勿論戦乱の陰で 死者なのか奴隷なのか飢えなのかは不明だ
それゆえ、秀吉の九州平定後も、年貢や徴兵などの負担に耐え切れない農民は、耕作地
を放棄していて年貢量も減る。必然的に耕作地は荒れ果て、農作物収穫量が著しく減少
することになれば、時の政治が労力の補給と動く事もやぶさかではない。朝鮮人の生け
捕りと日本への連行は、単に奴隷売買として金銭的なものを得るだけではなく、現実的
な目的があったのである。
高橋勢が往来するごとに、朝鮮から老若男女を問わず、生け捕られて奴隷となった人を
検分している。その数は、何百人いたかわからない。そのような中にも、幸運な女性は
妻妾となり、男は主人から許可を得て妻子をもうけ、生活する者があった。長生きした
者は、慶安(1648〜1652年)、承応(1652〜1655年)まで存命でその
子孫は今も多い。この高橋氏というのは 三潴から高田まで一帯の配置役人だった。
0008名無しさん2021/03/24(水) 12:50:40.79ID:ONtj34wB0
郷土の歴史 ・・・・33

 知っての通り 高橋氏は、元々は、鷹羽司である。豪族菊池氏に在していた久留米や
城島あたりの荘園主だったが、南北朝時代に天皇を迎えに行くと 筑後は戦乱の渦の、
中心になった。伝説では磐鹿六雁命(後世、日本料理の神として尊崇を集めた)を祖と
する古代氏族の一で、膳部(かしわで)氏とも称した一族とされる。代々内膳司を勤め
ており、同僚の安曇(あずみ)氏との衝突の果てに、789年 奏上の逸文のみ残る書を、
奏上し家記『高橋氏文』でたことで知られている事から、鳥飼近くの住民だったと推測
される。その後大友氏がなどが出て来て、大内氏が太宰権帥になり、太宰府長官になる
と陶晴賢以下大いに暴れまくり、安芸国・石見国に勢力を張った国人一族が高橋氏を名
乗って世に現れている。高橋興光の代で毛利元就に滅ぼされるが、石見銀山の護り神を
祀った神主だったか、それを運ぶ輸送の徒だったかだろう。伊予国高橋郷別名(現愛媛
県今治市別名)を根拠とした大宅氏の一族が高橋氏を称し、後に安芸国大崎上島へ進出
して海賊衆となった。と言われ上記の石見高橋氏とも同族である。とされている。ここ
で立花宗茂元々この高橋氏族の出であり、筑後国北部の御原郡の国人一族が高橋氏を名
乗っていた事は興味深い。初め大蔵党の支流。のちに豊後大友氏の支流出身の高橋鑑種
や高橋鎮種(紹運)が家督を継いでいる。筑後十五城の一つ柳川城の主となった。大蔵
党の嫡流は筑前国御笠郡の原田氏で、同筑後国朝倉郡の秋月氏、筑後国山門郡の田尻氏
、同筑後国三潴郡の江上氏などとは同族である。光種は足利尊氏から九州検断職に任じ
られている。と言われる。宝満城、岩屋城を治めるに至る時海賊衆の力を借りている。
これらの事から キリスタン大名になるしかない運命が想像される。毛利と大友の戦い
の頃所謂関門海戦では 既に国崩しと言う大砲は日本に知れ渡っていたのである。又
関ヶ原でも立花氏は 他に持たない 手持ちに出来る小型の大砲を2基持ち込んでいた
0009名無しさん2021/03/24(水) 12:51:08.87ID:ONtj34wB0
郷土の歴史 ・・・・34

柳川城は 天下の名城とされたが 廃藩置県の際の明治政府と行き違いが起こった。
佐賀の乱の江藤新平は有名な話だが 柳川城炎上には触れていない。ところが柳川城の
焼失について、原因は不明とされているのだが、実は慷慨派の反乱を予知した立花壱岐
が周到なる計画をもって自ら城を焼いた、という話が地元では伝えられている。この時
、いくつか不可思議なる動きがあって、その一つ―。本丸で火の手が上がると剣豪渡辺
の孫の渡辺又四郎が力士数名を率いて一艘の船を担ぎ出し、堀を渡りて密かに城内に、
進入を試みた。とされる。柳川城は、蒲池治久により築城された城郭で、別名の舞鶴城
の名は鶴が舞うように美しい形だったという城のシルエットによる。「御家中絵図」(
寛政3年(1791年))によると、平城で外堀に囲まれた御家中(現在の柳川市城内地区
)の中央よりやや南西よりに本丸と二の丸が東西に並んでおり、内堀を隔てた三の丸が
本丸・二の丸を取り囲んでおり、その外側に武家集住地域が展開していた。とされて、
佐賀の柿川城に似ていたらしい。三の丸には、立花一門・両家や家老の屋敷、御厩屋、
天満宮、長久寺、常福寺、三ノ丸蔵が置かれた。二の丸御門は坂本町とされ小高い丘と
されていたが今では跡形もない。この絵図は、柳川城本丸・二の丸の部分を中心に描い
たものです。三の丸には重臣たちの屋敷や御厩があり、二の丸へは通称欄干橋が架橋さ
れて隔てられていた。二の丸内部には番所や木屋があるほかはあまり建物も描かれてい
ない。二の丸にはもともと藩主家一族の屋敷があった。火災後は藩主家一族が御花畠が
移って新たな造作はなかった。本丸は、藩主や藩士たちが政治を行なうように本丸御殿
の間取がある。その本丸の南西隅に五層の天守が描かれて。本丸・二の丸を取り囲む堀
も非常に広かったようで、西側の堀幅は45間6尺(約82メートル)もあった。
0010名無しさん2021/03/24(水) 12:51:39.09ID:ONtj34wB0
郷土の歴史 ・・・・35

よく「柳川城址」で、柳川城の本丸跡は現在、柳川市立柳城中学校の敷地となっていま
す。などと書かれる。だがそれは間違っていて、大きさからも実は今の住宅街までも広
がっていて 平屋部分を隠していたようだ。又隣の私立柳川高等学校の校舎あたりが、
二ノ丸跡とされるが、それも又消防署辺りまであって 赤松や黒松など松林で囲まれて
結構広かった。とされる。そもそもが二の丸先の欄干橋は山王山神社の傍であり、そこ
が旧城門跡なのである。今呼ばれる「へそくり山」と呼ばれる石垣で囲まれた丘には、
その位置に天守台が建てられていた名残りだが「柳川城址」碑を市政で建てている。こ
の柳川城の城域は一応、本丸跡と二ノ丸跡だけのようで、柳川城らしい面影を残すの物
は残っていない。掘割すら蓮の池を埋めて住宅地にして茂庵町としたのだ。掘割に包ま
れた天然の要害で、城内、市街には無数の堀が縦横に交わり、今も柳川の堀川は現存す
るのだが、多くは市政の間違いで損なわれた。蒲池氏の築城時代に「柳川三年肥後三月
、肥前、筑前朝飯前(お茶の子さいさい)」と歌われた戯れ歌にもあるように、大きい
城で、持久戦の食糧・水など事欠かない城だった。攻略には3年かかるという九州屈指
の難攻不落の城と謳われていた。「御花」は5代藩主立花貞俶の時代に建てられた藩主
の別邸で、それこそ、その大きな二ノ丸でさえ、奥屋敷が手狭となった為に建てられた
別邸とされる。「御花」や「御花畠」と呼ばれていて、現在では料亭「柳川藩主立花邸
御花」として運営され、その庭園松濤園は国の名勝に指定されている。この庭は松の庭
松濤園と呼ばれ、元の柳川城が松の公園みたいな城だった事が伺い知れる。歴代藩主の
居住はあくまで本丸御殿で、本丸と「御花」とを行き来していたので、柳川城炎上のち
は、最後の藩主立花鑑寛公はその後「御花」に居住した。「へそくり山」の名はその後
の学校事業の折りや競馬場建設で幾つかの小判が出土したから、殿さんの破れへこの、
裁縫代として献上された事による。それほど逼迫した貧乏な城主であったらしい。
0011名無しさん2021/03/24(水) 12:56:49.46ID:ONtj34wB0
郷土の歴史 ・・・・36

 最後の藩主であった立花鑑寛は、改革派の家老立花壱岐を登用した。この病身の養子
は大きく安政の改革を行い、藩財政を立て直した事で知られる。壱岐は横井小楠や橋本
左内らとも親交があり、吉田松陰も壱岐の高名を知っていた。非常に開明的な人物だっ
たとされ、西郷隆盛も越後攻略後に度々顔合わせして話している。藩主の鑑寛は藩政の
全権を壱岐に一任していた。能力による役人の登用と、不要な役人の整理。租税の緩和
、殖産興業の奨励などの先進的改革を進めて、九州での最初に大きく財政は好転させた
藩になっている。しかし、文久元年に病気を患って辞職。隠居して療養に専念した。こ
柳河藩には、多くの剣豪が存在していた。あの剣豪宮本武蔵すら、柳川を決して通らな
い。と言ったほどだった。一刀流の渡辺氏、居合流の問注所氏、兵法指南の花畠氏など
幾人もの剣豪の中に天保三剣士の1人大石進がいました。大石神影流創始者で、左片手
突きは天下無双と呼ばれ、男谷精一郎、島田虎之助と並び称されています。明治に入る
と壱岐は復帰し、再度全権を一任され、兵制改革を行って精鋭で編成された部隊を戊辰
戦争に送った。別府氏三池氏小野氏を連ねた十時部隊である。柳河藩兵は盤城平の戦い
や、函館戦争に牛を用いた打開策などで活躍している。柳川城の炎上焼失は明治5年に
起こった。一説には、これは士族の反乱を防止する為の放火ともされ、その結果、以後
に各地で起こった士族反乱でも、柳川では動揺は生じなかったとされてはいる。だが、
ここには、柳川城は 天下の名城とされた為に 廃藩置県の際の明治政府と行き違いが
起こった。三条実美と藩券委託されて印刷所を起こしていた堤印刷所の問題があった。
実は山田氏が家臣として城内の山田氏つまり内山田氏は古いキリシタンで、長崎からの
グーテンベルグの最新鋭の印刷機を柳川に持ち込んでいて、明治政府は政府の金券を、
発行できなかったのである。そしてそれは薩摩の西郷隆盛も同じだった。
0012名無しさん2021/03/24(水) 13:00:15.68ID:ONtj34wB0
郷土の歴史 ・・・・37

この柳川人というかちっご人の早生もの好きは昔から色んな所にある。ラーメンも同じ
で日本初で安藤省庵が食べていたという、豚の飼育も柳川は早くこの担ぎ大砲も同じだ
筑後に山梔窩(さんしか=くちなしのや)がある。ここは、幕末勤皇志士・真木和泉守
保臣が久留米藩の藩政改革に失敗して謹慎させられ、9年9カ月を過ごした家である。こ
こに問題があった。実は水田神社は後年につけられたもので 本来は月読み姫を祀った
北野天満宮であった。つまり艮神社で陰陽道の神社だったのだ。水田天満宮そのものは
平安時代から水田小学校にあって、そこは秀吉の九州平定の頃戦火に焼け野原になって
立花氏の兄弟の小野鎮幸(おのしげゆき)の居城だった。戦国時代から江戸時代初期に
かけての立花氏、加藤氏の家臣となり。日本槍柱七本・立花四天王の一人に数えられた
。また和泉守であることから小野和泉(おのいずみ)とも呼ばれその末裔として和泉守
を称していた。慶長5年(1600年)に、関ヶ原の戦いが起こり石田三成の西軍への参加
を主張した藩主と共に大津城を攻略した。ところが、西軍が関ヶ原にて敗れると、加藤
清正、鍋島直茂、黒田孝高(如水)が柳川を攻める形勢の中帰参した。同年10月14日、
鍋島勢32,000は二手に分かれ佐賀を進発、立花勢も偵察のために八院方面へ出陣した。
しかし、東軍の徳川家康への恭順を示すため主君・宗茂は城に残り、立花勢13,000の内
出陣したのは家老の鎮幸を総大将とする約3,000でうち鎮幸の直卒する中軍は1,000余騎
で迎撃に向かったとされる。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河して立花方の海津城
を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲奇襲を受け20余
人が討たれたが城島城を攻略、翌10月20日に鍋島軍の先鋒軍3〜5,000と鎮幸率いる立花
軍 1,300騎と激突し江上・八院の戦いが起こっている。本来の海津城他支城の援軍が得
られず、思う様に戦えなかったとされる。
0013名無しさん2021/03/24(水) 13:06:22.43ID:ONtj34wB0
郷土の歴史 ・・・・38

立花勢先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは鎮幸の与力・松隈小源の
軍令が誤伝されて、軍法を破った独断での開戦した形になった為だ。次々と鍋島勢軍陣
の中へ突入し、先鋒第三隊の立花統次(三太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子)は
鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田へ撤退
したといわれている。しかし、鍋島方は、立花勢を包み込んで包囲殲滅する作戦を当初
から立てており、立花方は一騎駆けで敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒であ
ったの安東範久、石松政之もたちまち反撃を受け、救援出陣の第二陣 立花鎮実(戸次
右衛門大夫、藤北戸次氏の一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎、17歳)や、新田
鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から果敢に攻めかけたが、これも後を断たれ戦死した
。後陣の矢島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室・八千子の弟)と、千手喜雲(六之允、
筑紫広門の与力)は戦を躊躇し接戦していないため、馬廻衆の安東幸貞(津之助、安東
範久の養子)、第三陣の若武者十時惟久(新五郎16歳)、先鋒の安東範久、石松政之も
戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦した
が、鍋島軍の反撃を受け、供回りが15人になるまで討ち取られた。いかな槍の使い手の
小野といえども銃創と矢傷を負い討死寸前となった。そこに、水田方面の黒田如水軍を
偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊 300名を率いて、敢然と
奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退を果たしたのである。この後立花氏は親友
で敵側に布陣した加藤清正の、大軍号令での黒田氏の攻撃を抑えた停戦合意と久末会談
に応じて、柳川城の無血開城して立花山に蟄居の身となり、河童族とされる影の家臣と
共に福岡黒田城を築城加勢を行うのであるが、ではなぜ総勢で熊本城を開けるぐらいの
進軍で柳川を守ったのか。およそ大牟田から城島までアリの隙間が無い程囲って黒田兵
が来た頃には、「当方が柳川を捕って見せますので ご安心あれ。手出しは一切ご無用
。盟友ですので我が命果たしてでも落城させます。」と言ったとか言わなかったとか。
伝わっている。
0014名無しさん2021/03/24(水) 16:41:58.75ID:ONtj34wB0
郷土の歴史 ・・・・39

 実は太陽神を祀り、艮神社で 陰陽道の神社だった。と言うのはこの柳川では重要な
キーワードである。本来蒲船津神社も楠正行が落ち延びて来るまでは北に入り口のあっ
た艮神社で 陰陽道の神社だった。更に今では細工町とされる祈祷神社も同じである。
それは、沖の端川、昔の二つ河川の入り口本郷からの水理の道であったからだ。遠くは
八女の祈祷院からこの柳川の細工町の傍まで連絡路があった証だろう。これが本来の、
川下りのコースである。かつては河童さん道とされる川筋だがその中間に花園橋がある
百丁とされる地名で百番目の番地の名だ。これは久末神社が縄文時代からの猿田彦との
開発した街だったとされる条里制の跡でもある。この細工町に風浪宮神社が本宮として
祀られていて、ここが竜宮城伝説の元ともされる。立花壹岐の守は隠居してこうした、
方々の言われや伝説を集めて 本にしたい。と印刷機を所望したと言われる。十時家に
養子になり、佐賀藩の反射炉による砲塔政策に、既に江戸幕府の時代は終わっている。
と知った柳川藩は直ぐに 幕府要請の小倉進駐から、薩摩長州の合議を知っていたもの
と思われる。というのもグラバーとの交流は鍋島藩より立花藩の方が古かったからだ。
柳川城炎上は明治5年に起こり 西南戦争は明治10年に起こっている。日本では明治
5年12月2日(1872年12月31日)まで天保暦(旧暦)を採用していたため西暦とは ずれ
があるが、このずれを直す明治政府に神道宮司が反対した。既に久留米藩から王政復古
運動で1852年5月17日に蟄居謹慎の令があった水田天満宮の宮司和泉守と 直弟大鳥居理
兵衛は、大鳥居家の一隅に尾島の大工茂吉に4畳半と3畳の家を建てさせ、翌年8月6日
移り住んだ。しかし1862年2月16日、藩の無許可で薩摩へ脱出してのち 舞い戻りこの地
で門弟教育に従事し、多くの倒幕・尊王運動家を世に送り出したとされる。明治4年に
(1871年)11月12日(陰暦)に米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を
出発して、岩倉使節団(いわくらしせつだん)を作り、明治維新期を打開すべく太平洋
を一路カリフォルニア州サンフランシスコに向った。その後にアメリカ大陸を横断して
ワシントンD.C.を訪問し、アメリカには約8か月もの長期滞在をしている。
0015名無しさん2021/03/24(水) 16:54:21.26ID:ONtj34wB0
1870年(明治3年) 44歳の西郷に6月2日に、戊辰戦争で功績のあった藩と個人に賞典禄が
下付された。西郷隆盛には最高の永世賞典禄2000石が与えられ、正三位を授けられます
、が羨望や誤解を与えない為、藩主島津忠義が西郷隆盛よりも低位な従三位となる為に
これを辞退した。だがこれが実は江戸幕府倒壊の象徴的ものだった。1870年(明治3年)
44歳になって、参政を辞職して相談役になる。山口では木戸孝允が帰省している状態で
奇兵隊など諸隊の兵士たちが処遇の改悪や幹部の不正に反発し、脱退騒動が頻発してい
た。薩摩藩内でも武力を用いた早期鎮圧を西郷隆盛に頼む声に、2月に山口へ調査に出
た。脱退兵が鎮圧された山口に入り処遇を見届けた後鹿児島へ戻り島津久光の政府への
不満や薩摩藩士らを一身に受け止め7月に政府の執務役になり、8月に大参事に任命さ
れたのを受けた。藩庁の最高責任者に返り咲いたのを見て、大久保利通は新政府の改革
に島津久光と西郷隆盛の協力が必要不可欠と見て兄の西郷従道に説得を依頼した。西郷
従道の説得によって、大久保利通の苦衷を知った西郷隆盛は落涙し政府の維持に努める
と約束をし、この約束を取り付けたことで、岩倉具視を勅使とした 大久保利通を含む
勅使団が12月18日に鹿児島へ入り西郷隆盛と島津久光と会う事が出来た。こうした事で
12月24日会談し島津久光は西郷隆盛の上京を承諾した。12月28日岩倉具視・大久保利通
は西郷隆盛を伴って鹿児島を発った。鹿児島を出発し西郷隆盛は途中、山口・高知に立
ち寄り三藩提携を約束させ、2月2日西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・板垣退助は揃っ
て東京に入城した。2月10日に三藩の兵を親兵として用いることを決定し、この準備に
一時的に鹿児島へ帰国した。この後も、明治天皇の西国巡幸を計画し、明治天皇と西郷
隆盛らは近衛兵を引き連れて皇居を出発して巡幸した。明治天皇は主に洋装で過ごし、
一部の移動を騎馬で行った。一行は鳥羽・伊勢神宮・大阪・京都・下関・長崎・熊本を
経て、6月22日に鹿児島に入り明治天皇が洋装で騎馬に乗り、民衆の前を移動する姿は
伝統的守旧人には耐えられない光景で、島津久光も嘆息し、時代の変化を肌身で感じる
光景となった。この1872年(明治5年)の行幸にあわせて 柳川には三条実美が城明け渡
しを迫っていたのである。
0016名無しさん2021/03/24(水) 17:04:57.70ID:ONtj34wB0
郷土の歴史 ・・・・41

 実は明治4年(1871年)11月12日の岩倉使節団の欧米各国との関係改善には金本位制
での海外通貨との交換比率の改定と、外国人街の主権の問題の解消が絡んでいた。岩倉
遣外使節団が横浜港を出港し、使節団には岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文
など明治政府発足以来の中枢人物がこの中に組まれ、使節団の留守を守る為にいたのが
、太政大臣の三条実美、参議の西郷隆盛・大隈重信・板垣退助らで構成される留守政府
であった。留守政府の中で西郷隆盛は参議、大蔵省御用掛、近衛都督、陸軍元帥として
多くの改革に関わりました。とりわけ宮廷改革には力を入れ、近代国家建設にふさわし
い君主像の模索を続けている。岩倉具視、大久保利通らは、実は政策に行き詰っていて
内乱が起こるのを恐れて政策進行が出来ないでいたが、その恐怖から西郷隆盛に政令の
発布が無いように進言していた。廃藩置県や地租改正を行えば、数百年に及ぶ封建制及
び土地支配のあり方が破壊されてしまうものであり、武士・農民層に反政府行動に向か
わせる可能性が高い改革であった。この時期の政府がこの路線を貫徹させようとすれば
、誰が指導者であったとしても結果的に士族反乱や農民一揆は避けられなかった。しか
し使節団出発後、留守政府は学制・徴兵令・地租改正・太陽暦の採用・司法制度の整備
・キリスト教弾圧の中止などの改革を積極的に行い成功していた。こうした事で、政策
以上に紛糾と対立を引き起こしたのは財政と人事を巡る問題であった。これに使節団の
出発以前に構想されていなかった唯一の政策の「西郷隆盛の遣韓問題」を糸口に、留守
政府と岩倉使節団の対立が激化して行った。「強兵」を推進しようとする山縣有朋に対
して自説の士族主体の志願兵構想を 撤回して彼の構想する徴兵制の確立に協力した。
しかし正院や他の省庁との財政を巡る対立で井上・渋沢が辞任に追い込まれた際には、
これを止めなかった。この井上・渋沢と近かったのが松本家であった。三階松の家紋の
松本家は井上・渋沢に投資できる鴻池より大きい豪商だった。でこの投資を貰うべく、
松本姓をつけている。柳川でも松本病院や松本木材がそうであり、先駆的技術者の資格
として機能した。つまり昔の暖簾分けされた信用ある屋号のようなものだったのだ。
0017名無しさん2021/04/15(木) 23:45:57.40ID:AaoGxqBj0
郷土の歴史 ・・・・42

山城屋事件(やましろやじけん)は、明治5年(1872年)、留守政府体制下で発覚した
疑獄事件である。 御用商人山城屋和助は陸軍省をはじめとする省庁から公金の貸付を
受けていたが、損失を出して返済が不可能となった。これが発覚したため陸軍省内では
陸軍大輔山縣有朋の排斥運動が勃発、和助は自害、山縣も一時的に失脚した。山城屋の
借り出した公金は総額約65万円であり 、極めて巨額であった 。山城屋和助は政府要人
と同じ長州藩出身であり、奇兵隊では山県有朋の部下であった。背景には、陸軍省保管
の現銀が価格低落を被っていたことがある。陸軍省は資金運用を理由として公金貸し付
けを行った。ところが、ヨーロッパでの生糸相場の暴落し更に陸軍省から更に金を借り
出し、フランスの商人と直接取引をしようとフランスに渡った。そこで一人の日本人が
フランスで豪遊しているという情報が、フランス駐在中弁務使鮫島尚信やイギリス駐在
大弁務使寺島宗則の耳に入り、日本本国の外務省・副島種臣外務卿へ連絡された。徴兵
令導入への反発もあり、陸軍省内での混乱はなおも続いた。山県有朋は1872年(明治6
年)4月10日辞表を提出し、4月18日に陸軍大輔のみの辞職が認められた。政府上層部は
山縣の排斥を望んでおらず、太政大臣三条実美は山縣の腹心であった鳥尾小弥太らまで
辞表を提出することがないよう、井上馨に調整を頼んでいる。また西郷隆盛、大隈重信
、井上馨が調停に動き、4月29日、山縣は陸軍省御用掛として陸軍卿代理となって 事実
上復帰を遂げる。また6月8日には西郷の推薦で陸軍卿に任じられている。他に処分を受
けたものは陸軍大丞・会計監督長船越衛が該当する。また陸軍中佐湯浅則和(建築家の
片山東熊の兄)は裁判で武官免職・位記剥奪の処分を受け、辞職している。こうして、
山城屋事件で山縣が辞任に追い込まれたが、同様に柳川藩の財政事情も同じだった。
0018名無しさん2021/04/15(木) 23:49:33.13ID:AaoGxqBj0
郷土の歴史 ・・・・44

 実は柳川には侮れないものが幾つかあった。それは、いち早く海外を取り入れた藩で
あった事だ。実は太古の昔の神話の時代から、安曇磯良丸という風浪宮の宮神を祀り、
日本最古の船大工とされる。更にこの人を崇めて、古来から日本の船に丸をつけた伝説
が残っている。どんこ船とされる流線形を取り入れ竜骨のない大船を得意としたようだ
。今は県の改造されたが実は 風浪宮の屋根裏は特殊だった。船底に大木が使われずに
比較的薄い板を縦に使いえつりを施し石灰を塗って更に薄い板を縦に重ねて貼った工法
である。重い船底はその為安定し、周りの側板は比較的高くなるが、それだけ強固で軽
い物だった。まあ竜骨を側面につけた様な作りだわな。又、まだ嬉野茶が出る前は筑後
のお茶はチッゴティとして、独立戦争の米国まで売れていた。風邪と共に去りぬの舞台
の演出まで取り入れられるブランドだったのである。事実三橋近郊から八女にかけては
これらの特産品は外貨を稼いていた。何故か。それは旗日と呼ばれる布で干すものが、
その後筵での生活需要が高かったのだ。お茶はおよそ今なら7月である。一通り干しあ
あがると実は精蝋の蝋を干し、その後米である籾を干すのである。でそうしたクズ飛ば
しに冬日は北風除けの暴風柵を設けている。そして春まで筵の織物や茣蓙などを織る。
で掘り干しや海苔作りなどで干物作りし、又夏場は当然田植えし終われば、茶摘みって
いう流れだったのだ。こうした生活習慣から、稲も長稲と呼ばれる水中作も可能だった
と思われる。事実柳川のえつりは有名で、イモ洗いの水車だの、どじょうの蝋下など、
所謂籠作りに御幣竹の起用された物品が平安時代からあるようだ。事実鷹尾神社文書に
は、多くの溝に法面(のり)作りに柳を植樹しそれに竹柵で築き泥を止め土地を作った
とする苦役がある。更に条理制の習わしに境界木を楠木としていたのだ。それが柳箸の
言い伝えである。それを牛耳っていたろう久末神社は更に古いと言える。
0019名無しさん2021/04/15(木) 23:56:26.21ID:AaoGxqBj0
郷土の歴史 ・・・・45

 話を戻そう。山城屋事件(やましろやじけん)は、奇妙な事に 明治新政府が出来、
まだ西洋化を模索する頃の資金繰りの話である。この時あまりにも多い金の流出に政府
は頭を痛め、交換価値つまり金銀の通貨の世界価値の改定に努めていた頃なのである。
この時初めて 世界でも藩札みたいな通貨や株券という信用が世界の標準だった事を、
改めて知った。しかし立花藩は、戦国時代からそれらは熟知していてグーテンベルクの
精密な印刷機を持っていたのである。それが長崎で見つけた印刷技師の内山田氏だった
。そもそも浦賀沖に黒船が来た1851年に、立花種恭が三池藩5千71石を与えられ
る栄誉を得たのだが、この時まで三池藩は幕府直轄領で石炭が取れると言うことだった
。同じように、日田の金鉱脈もこの時出尽くしていて、僅かしかなく、石炭同様幕府の
財政に重荷になっていた感があった。そこで信頼厚い立花種恭の預かりになっていた。
そこで、大きな改革と探索をもって、新鉱山を発見したのである。これを隠しながら、
日田の鉱脈と三池大牟田の石炭を掘り進めていくのである。そして突然に軌道がのった
所の1868年に申し入れがあり、9月、三池預かり所を 長崎県の支配とする通知が
出て、1869年に廃藩置県に応じよと言うのである。三条実美と西郷隆盛の探索の末
である。グーテンベルクの印刷機に端を発したこの攻防は至難を極めた。既に機械は、
隠していたがその絵具が無かったのだ。政府側としたら、新たな明治政府の新札発行に
買い付けにグラバーに行ったら、先行して買っていた藩があった。と言う事だから万博
の薩摩藩どころではなかった。いつ偽札で被害が及ぶかも知れない。と言う事になる。
三条は一応は議定であり、今の総理大臣の地位だ。更に西郷は王政復古の立役者だった
。更に「岩倉使節団」の旅には100人以上の新政府リーダーたちが留守の時だった。こ
の時、その侮れない存在が明るみに出たのである。鉄船を持ち火砲を持ち、詳細な藩札
を刷り、火薬を作り、石炭金鉱を持つ藩。その上万博・長崎の陸蒸気・佐賀の反射炉・
などなど あらゆる所から密偵による情報を持っていた。・・・この事が知れた。
0020名無しさん2021/04/16(金) 00:00:54.69ID:0KhQOPby0
使節団
0021名無しさん2021/04/16(金) 10:00:55.75ID:0KhQOPby0
郷土の歴史 ・・・・46

 実は、1871年〜73年岩倉使節団は有名だが、日本は江戸幕府の頃から使節団を送り、
直近でも10年前から つまり黒船到来から次々に 西洋視察に使節団を送っていて、
各自各藩も船の購入やら 大砲や鉄砲の購入を働きかけていたのである。岩倉使節団は
1871年(明治4年)11月に横浜を出航し、米、英、仏、ベルギー、オランダ、ドイツな
ど 13か国を約1年10カ月かけて視察した。産業革命後で近代化真っ只中の西洋諸国の
政治、軍事、産業、文化、生活などを見聞し、情報を収集して持ち帰った。とされる。
開国後の日本の早急な近代国家への脱皮を迫られる中での渡航だった。明治新政府の中
政府首脳陣や留学生を含む総勢107名という大使節団であった。この大いなる意欲 決断
には、現代から見れば驚嘆すべきものがあるが、それは少し前、1867年4〜11月までの
パリ万国博覧会への幕府、薩摩藩、佐賀藩が参加するなどの失態があったからだ。海外
交流は既に深まっていてその後の最大の派遣は、明治政府による世界の知見を導く提言
がひっきりなしにあったからだった。この時密かに御用商人山城屋和助と同様立花藩も
幾人かのキリスタンを通訳にこの内山田氏と共にグラバーの斡旋によって出航していて
印刷機の買い付けをしていたのである。洋風洋装で上海経由の船で グラバー社員とは
仲良く行ったらしい。更に上海・香港までは薩摩の殿様も往復している。とされている
。この時の最初の衝撃は、勿論中国が無様に負けて権力の届かない港では中国人くーり
はみな奴隷と同じ労働者だった事だろう。今は洋装や袴着た武士であろうが、国が沈め
ば、いつ日本人もこうなるかはわからない運命に驚愕したはずである。生麦事件(なま
むぎじけん)は幕末の文久2年8月21日(1862年 9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村付近に
おいて、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人
たちを、供回りの藩士たちが無礼打ちして殺傷(1名死亡、2名重傷)させた事件である
。相手が外人だっただけに 薩摩も相当に調べる使節を送ったはずである。江戸幕府だ
けでも、1860年 万延元年遣米使節を送って以来、帆船の臨海丸が度々渡航していて、
解っている使節団だけでも10はあった。
0022名無しさん2021/04/16(金) 10:01:18.72ID:0KhQOPby0
郷土の歴史 ・・・・47

@ 1860年 万延元年遣米使節
江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した使節団。1854年の
開国後、最初の公式訪問団で、1854年(嘉永7年)に締結された後日米和親条約に続き、
1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結された。批准書の交換場所がワシントン
で行うとされ、江戸幕府は米国に使節団を派遣することとなった。外国奉行を兼る神奈
川奉行をしていた新見豊前守正興が正使に任命され、使節団は77人であった。米国海軍
のポーハタン号で太平洋を横断し、3月サンフランシスコへ到着した。又正使一行とは
別に護衛を名目に咸臨丸を派遣することになり、軍艦奉行であった木村喜毅に司令官を
命じ、勝海舟、通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)、福澤諭吉
等96名が乗船している。咸臨丸はワシントンへ向う正使一行と別れ、ホノルルを経て、
浦賀へと帰還した。

A 1862年文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)
江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約
(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期
交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣
した最初の使節団である。正使・竹内下野守保徳らに福沢諭吉も加わり総勢36名となり
、さらに後日通訳2名(蘭語、英語)が加わった。実務的交渉のみならず、西洋事情の
探索を公的な使命として送られた。帰国後、福沢は「西洋事情」を著して発刊したが、
それは大ベストセラーとなり明治の人々の西洋理解を促し、大きく西洋化に弾みをつけ
た。
0023名無しさん2021/04/16(金) 10:01:42.56ID:0KhQOPby0
郷土の歴史 ・・・・48

B 1862年上海使節団第一次派遣:
江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方を調査するため、太平天国の乱
の末期にあたる1862年6月2日、御用船千歳丸を上海に派遣した。交易が表面上の理由で
あったが、清朝の情報収集が本来の任務で、約2ヶ月間逗留した。日本人が中国を正式
に見聞するのは2世紀ぶりであった。薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら50名程が
参加した。その後幕府からは二次(1864年)50名、三次(1865年)3名、四次(1867年
)10名と上海へ使節団が送られた。

C 1862年幕府によるオランダ留学生派遣
西洋の学術・技術の導入は急務であった。幕府はそのために 西欧に留学生を派遣する
計画を立て、当初は軍艦注文と留学生の派遣先にアメリカを考えていた。が、南北戦争
の勃発のために断られた。オランダに依頼を働きかけ、軍艦の発注と留学生派遣を交渉
し、難産で決定した。文久2年3月13日(1862年)に下命を受けメンバーは 軍艦操練所
から榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良、内田正雄、田口俊平、蕃書調所から津田真道
、西周などで、そこに長崎の医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や
船大工等の技術者である職方7名が一向の渡航に加わった。

D 1863年第2回遣欧使節団
横浜鎖港談判使節団とも呼ばれた。外国奉行池田筑後守長発を正使とし、西暦1863年の
文久3年12月29日から元治元年7月22日にかけて(1864年2月6日〜8月23日)幕府から、
フランスに派遣した34名の外交団である。使節団の目的は、開港場だった横浜を、再度
閉鎖する交渉を行う急務であった。この時、孝明天皇は文久3年5月10日(1863年6月25
日)をもって「攘夷の勅命」を発するほどのものだった。これに従って幕府は各国公使
に対して開港場の閉鎖を通達するが、諸外国は当然これを拒否し、幕府も9日後には、
これを撤回すると言う混乱ぶりだった。更に下関事件や薩英戦争、フランス士官カミュ
殺害事件等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた最中で、公使の策略と幕府の抵抗、
などがあったと考えられる。
0024名無しさん2021/04/18(日) 12:15:33.27ID:7za4AAJo0
郷土の歴史 ・・・・49

F 1865年幕府によるロシア留学
駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは、幕府にロシアへ留学生を送ることを提案し
、1865年(慶応元年)、幕府は遣露留学生を送ることを決定した。市川文吉(18歳)、
山内作左衛門(29歳)・緒方城次郎(緒方洪庵の3男・21歳)・大築彦五郎(15歳)・
田中二郎(14歳)・小沢清次郎(12歳)の6名を選び、この中で、家格が一番高い市川
文吉が留学生の組頭となった。7月28日、箱館からロシア軍艦ボカテール号に乗船出発
し、長崎・香港・ケープタウン・セントヘレナ島・プリマスを経て、フランスのシェル
ブールに入港する。そこから鉄道でのパリ、ベルリンを経由してペテルブルグへ行き、
翌年2月16日に到着した。


G 1865年薩摩藩遣英使節団
薩摩藩は生麦事件以来攻防を広げて1863年8月の薩英戦争で敗北するが、幕府の仲介によって賠償金などの講和交渉となった。その中で英国に留学生を派遣することを提案した
。これには英国側も驚くが、戦った相手から学ぼうとする姿勢を評価し、薩摩藩と英国
は急速に懇親を深めることになる。薩摩藩は3名の視察員(五代友厚他)と15名の留
学生を決定し、1865年春にトーマス・グラバーの持ち船であるオースタライエン号で、
密航出国し、5月にロンドンに到着した。15名の留学生のうち、大学入学年齢に達して
いなかった長沢鼎のみ中学校へ入学し、そのほかの14名は長州藩の留学生と同じくUCL
の聴講生となる。一方3人の視察員は、ヨーロッパ各地を回って国情の視察や商談を行
った。聴講生となった14名はロンドンに着いて間もなく、既に同大学で学んでいた長州
藩の3名――山尾、遠藤、井上勝と出会った。勉学の合間にお互い交歓を重ね、薩長の
「禁門の変」(1864年)以来の仇敵の間柄は、薩長同盟が結ばれるより以前に、遠く離
れたロンドンに於いて、既に藩の枠を超えての日本人という一つの国家の国民としての
意識で結ばれていた。
0025名無しさん2021/04/18(日) 12:30:17.42ID:7za4AAJo0
郷土の歴史 ・・・・50

H 1866年遣露使節団 
文久2(1862)年の第三次の遣欧使節は、ロシアとの間で樺太の国境画定交渉を試みた
が失敗していた。その為その後にロシア人の南下が進み、箱館奉行兼外国奉行小出大和
守と目付石川駿河守以下14名が、幕府の命令直下、慶応2(1866)年ペテルブルグに
派遣された。再度の国境交渉の為だ。交渉は難航し成功せず、結局翌年2月樺太を両国
雑居地とするカラフト仮規則が締結される。日本は古くからロシア人に散々な目に合わ
されている。近代でも文化露寇(ろこう)で文化3年と4年(1806年・1807年)ロシア
帝国から日本へ派遣される外交使節ニコライ・レザノフの部下に北方の都市を攻撃させ
られ、戦争用意だけで防備の兵士が馴れぬ凍傷で死んでいる。又、ポサドニック号事件
では、対馬占領されて暴漢兵士に侵略された。、文久元年2月3日(1861年3月14日)、
ロシア帝国の軍艦ポサドニック号突然の対馬来はし、尾崎浦に測量、その後浅茅湾内に
進航し上陸後、暴挙と略奪を行って江戸幕府を驚愕させている。大津事件の皇太子殺傷
の裏にはこうした粗暴な振舞いが日本人の矜持に怒りの影響がある。又開国後に遅れま
じと多くの事件を起こして、結果敵に朝鮮や中国大陸の事件でもそれが日本に降り罹る
0026名無しさん2021/04/18(日) 12:30:48.16ID:7za4AAJo0
1867年のパリ万国博覧会で幕府は、薩摩藩、佐賀藩が参加するなどの失態があって、
海外交流が各藩でも深まっていた事が見て取れる。渋沢栄一は将軍徳川慶喜の弟・昭武
のパリ万博列席に随行して、欧米諸国を周遊、当地の文物や制度を学んで帰国した。と
される。この時 倒幕の罠に慶喜は大政奉還してしまうが、逆に欧州の地に長居し、金
を工面し、そうした苦労から、合本資本主義の日本型資本論、渋沢資本論を導き出して
いる。この渋沢にほれ込んでいたのが西郷とされ、初めて対面してるのは、一橋家家臣
だったからだ。一橋家家臣の平岡円四郎に密偵を命じられて、討幕派の西郷の相国寺の
宿に泊まるなど西郷を訪ねている。2人は、攘夷運動や藩政改革などについて議論して
、大いに盛り上がり、西郷は渋沢をいたく気に入った。「お前はなかなか面白い男じゃ
。食い詰めて仕方なく放浪しているのでなく、生活手段があってしかも志を立てたのは
感心な心がけ、いやぁ感心感心。今後も時々遊びに来なさい。」といい、その後も偵察
に何度か西郷と会っていっる。
0027名無しさん2021/04/20(火) 20:24:42.40ID:/q/1mDmj0
郷土の歴史 ・・・・51

西郷には眼力があったと言える。西郷は渋沢を気に入り面白い男じゃ。と可愛がるのだ
。渋沢も好きだったのだろう。その後も偵察に何度か西郷を訪問した。が、ある日豚鍋
をつついて西郷は「今のように天下が乱れては、皇室に対しても恐れ多い」と嘆いたと
いう。「老中制度を廃止して、藩を代表する数人による新しい政治が必要だ。」と熱弁
し、さらに一橋家と徳川慶喜にも「むろん一橋もその一員に加わって、座長になると、
よか。そこで根本的な国策を立てる以外に収拾の道はなかろう。」と言い放ったという
。酒の席だったので「ところで貴公の御主人だが、どうも慶喜公は腰が弱くていかん。
」とさえ言った。慶喜に仕えていた栄一は、この言葉に少しカチンと来て、「それなら
あなたがその中心人物になってはどうですか。」と12歳年上の西郷をけしかけたと言う
。だが本当は西郷にけしかけられたのだ。西郷一橋家に忠誠心が無ければ自分の下にと
思っていただが、直ぐに反論したので、「いや、そりゃいかん。天下の政りというもの
は、そう簡単にはゆかん。なかなか難しいものだから、すべて物事は順序を経なければ
。」とやんわり逃げた。多分に欧州でも、大政奉還後の西郷の行動は連絡を受けていて
、幾ばくかn思い出しをしていた事だろう。豪放磊落なイメージが強い西郷だが、常に
先を見通しながら繊細に、更に言動には慎重を期した行動を取っていた。大久保と同様
に、西郷もまた島流しの懲罰を受けしたたかに生きていたのである。そこに底知れない
男の姿と情愛の風体があった。と渋沢は振り返る。更にそのことを、実感することにな
った事件は多々あったようだ。江戸期の立花藩は最初は棚倉藩を受け負って藩経営を、
していた。
0028名無しさん2021/04/20(火) 20:25:08.73ID:/q/1mDmj0
郷土の歴史 ・・・・52

慶長8年関が原の戦いで西軍に付いた立花宗茂が許され1万石(後に3万5千石)が与
えられたが、その最初が棚倉藩の経営で入城している。元和6年(1620)に宗茂が柳河
藩に移封して後も、元和8年(1622)丹羽長重が古渡藩から5万石で入封したが、丹羽
氏とも懇意でありこれは、入封ではなく貸付と言う形に近いものであった。つまり幕府
のお膳立てで全てを委託した形での入封だった。丹羽長重はすぐさま城を築き 教育に
専念しその後この地域から逸材を多数輩出して江戸の官僚となった。その中には西郷の
新政府軍を代表して 会談に臨んでいた黒田了介(清隆)旧庄内藩主酒井忠篤がいた。
この時 西郷は別屋敷で、黒田の報告に「もうよか。人が死ぬのはうんざりだ。白旗を
揚げてるんだ。君の言いようにしてよか。新政府だろうが反政府だろうが、明日の日本
を背負う若者が大事だ。榎本が、今度は函館に、籠りやがった。と、ぽつり言って酒を
飲みほしたと言う。つまり戦後の日本を非常に気にかけ 袂を分けたが幾人かの知って
る者の死を悼んでいた。現に上野の墓には、彰義隊の遊撃隊、歩兵隊、砲兵隊、純忠隊
、臥竜隊、旭隊、萬字隊、神木隊など、1500名の人数と諸藩脱藩の士で膨れあがったが
実は、夜討ち火付けなどの、薩摩の横暴で、薩長に対抗心があるものなどの加入が続い
て膨れたもので、この事に篤姫からも勝海舟からも一喝されていたのである。夜盗のご
とき軍の規律が 新政府にあるのか。と。我が官軍の将軍徳川慶喜様は、江戸の武士は
おろか町民農民、いや日本の各藩の住民を慈しみ、戦禍に置いて海外から蹂躙されて、
日本が日本でなくなることを心に痛み引きさがると言うのに、お前はどうしようと言う
のか。西欧列強に国土や町民を売る気か。返答を貰おうか。チャンと指揮が取れないと
なると臨海丸から大筒撃っても好いんだぜ。倒幕したんだから死ぬ気で立て直しして、
もらわな、主さんも。」と言い放った。
0029名無しさん2021/04/20(火) 20:26:13.90ID:/q/1mDmj0
郷土の歴史 ・・・・53

柳川市内にも丹羽氏の子孫はいる。つまり金鉱生産の精錬技術を持つ家系だったのだ。
ところが、天保年間頃から松平家の左遷地の様になって行った1866年(慶応2年)阿部
正静が陸奥白河藩より10万石で入城。松平康英が武蔵国川越藩に移封されると、突然に
大政奉還が起こって戊辰戦争が始まっている。戊辰戦争では、藩兵を率い奥羽越列藩に
同盟が出来て、白河口において新政府軍と対峙した。1868年(慶応4年)6月には当然
に襲われて棚倉城は落城し、正静は降伏し 維新後は4万石に減封された。奥羽越列藩
同盟(おううえつれっぱんどうめい)は戊辰戦争に際しての奥羽,北越の諸藩が、官軍
に抗戦するために結んだ同盟だったが、これを聞いてこの柳川藩に新政府の要請が来た
。当時早々と黒船の蒸気船を持つ柳川藩は、鍋島藩と共に買った船と、2隻を江戸大川
間に就航させていた。会津藩・鶴岡藩は、最も強硬な佐幕活動を行なう藩だった。江戸
市中に薩摩藩の放火を取り締まっていた為、会津と共に反薩摩の意識が強かったからだ
。此の為、開城後は藩主らは藩地に戻り謹慎していた。しかし官軍側は,九条道孝を、
鎮撫総督に任じ、会津・庄内両藩の追討を司令して、仙台藩米沢藩に使者を通じ討伐を
命じる発令を出す。仙台米沢藩の両重臣らは、会津庄内両藩主の謹慎を官軍側に報告し
て、追討取消しの嘆願を行なった。が、官軍側が冷たく門前払いでこれを却下したのだ
。しかし、世論は「恭順の意を表わすものを討つのは卑怯で不当である」として、仙台
・米沢両藩は総督府参謀の伝達しに来た世良修蔵のを斬って抗戦決意を示し、それに応
えたのである。こうして慶応4(1868) 年5月 奥羽26藩の間に早々と攻守同盟が成立し
た。これが奥羽列藩同盟と言われるものだった。ところが基本はこの棚倉城は三池藩預
かりのものだったので、新政府はこの立花藩に江戸にいた兵員を送る事を命じるのであ
る。反政府側が上野戦争の頃から輪王寺宮を天皇として擁立するという噂は流れていて
、事は急を要した。丹羽氏は基本的に山師で山を見て赤土から金を精錬産出させた。と
され、その土色から丹の人とされた姓とされたという。
0030名無しさん2021/04/23(金) 08:09:59.39ID:KhgmqB+I0
郷土の歴史 ・・・・54

この丹羽氏との繋がりもその後に幕府直轄領となっていた日田が、金鉱山からの金産出
が少なくなって、その運営が立花氏に任せられたからだった。実はこの日田の金山は、
キリシタンが探しにきた金鉱であった。日田は元々は豊後国を治める大友家所領でした
。ところが当主大友家は、島津に敗け、秀吉に敗けその軍門に下った。大友氏は、日本
で信長より古いキリシタン大名であり、有名な宗麟(義統の父)の時代に黄金時代を築
いて九州の覇者に登り詰めた関東武士の家系である。天正6(1578)年、宗麟から家督
を継いだ義統は、南九州で台頭してきた薩摩の島津氏と九州の覇権を賭けて日向の高城
川で戦い(耳川の合戦)、大敗を喫した。この戦以降大友氏は九州での勢力を徐々に失
い、覇権は島津氏に移った。天正14(1586)年、島津氏による豊後侵攻が始まると、
大友氏は家臣達の相次ぐ離反で滅亡の危機を迎えた。この危機に、隠居の身の宗麟は、
老体に鞭打って大坂城に赴き、豊臣秀吉の援助を取り付け、九州征伐に秀吉が立ち上が
る。義統は、秀吉は四国連合軍を援軍として派遣し、豊後に攻め入った島津軍と戦うが
、戸次川の合戦(大分市中戸次)で敗れてしなった。戸次川で敗れた義統は府内(大分
市)を退去し、高崎山(大分市)に籠もって抵抗するかと思われたが、豊前の龍王城(
宇佐市安心院町龍王)まで更に逃れた。府内の大友館で居住し、敵の侵略などの緊急時
には高崎山に籠って戦うのが大友氏の通例だったが、義統の行動は敵前逃亡と見られて
その姿で地に堕ちた。こうして島津軍は府内を手中に収め、豊後の大半を占領したが、
宗麟が臼杵城(臼杵市)、佐伯惟定が栂牟礼城(佐伯市)、志賀親次が岡城(竹田市)
で抵抗を続け、秀吉軍の救援を待ち、天正15(1587)年、豊臣軍の本隊が九州上陸を果
たし、形勢は一気に逆転し、島津軍は豊後から撤退した。島津氏の当主、義久は薩摩に
退いて豊臣軍を迎え撃とうとしたが、圧倒的な兵力の差を悟り、ついに降伏した。
0031名無しさん2021/04/23(金) 08:15:56.37ID:KhgmqB+I0
郷土の歴史 ・・・・55

こうして天正18(1590)年、秀吉は天下を統一し、キリシタンとの 交渉に入った。
九州討伐時には、殆どの九州大名はキリシタン大名だった。しかし、ここで3つのもの
、つまり黒船と火薬と大砲、更に綿布及び綿糸の輸入に戦国武将は飢えていた。信長の
時にそれらの事は重々解っていたが、それでもその為に、従順な日本人が奴隷としての
代価として売られている現実があった。元々本来は金銀が代価として支払われていた。
しかし、各大名にも貧富の差があり貧乏な大名は夜盗の様に人を身売りに陥れキリスタ
ンに売っていたのである。これを知った秀吉は驚愕し、人の哀れさについて大きな志を
持った。そこで奴隷船の元締めが大陸にある事を知った。「唐入り」と言われた朝鮮へ
の侵攻は文禄、慶長の役(1592〜1597年)として、16万の大軍を動員して朝鮮に侵攻
する。大友義統も第3軍の黒田長政配下として、6千の豊後兵を率いて文禄の役に出兵
し、文禄2(1593)年正月には、平壌(ピョンヤン)まで進攻した。しかし朝鮮も明の
援軍20万を呼び、小西行長軍は攻撃を受けて窮地に立った。行長は、後衛部隊の大同
江南方の黄州に布陣していた義統に救援を要請したが、義統はその救援を行わず黒田陣
まで退却してしまったのである。これによって日本軍は分断され、その先に居た毛利軍
に伝令が来た。しかし毛利軍も一端退却を決めたが、俄然立花氏は行長氏はおろか先行
する加藤清正を助けに行くと決める。こうして碧蹄館の戦いが始まった。既に明軍に取
り囲まれて闘う加藤軍に、一縷の望みが見えたのは、猛然と切り分けて入ってきた毛利
の下にいた立花軍であった。こうして窮地を脱して逃げ延びた行長は、この義統のとっ
た行動に憤慨し、このことを直ぐに秀吉に報告する。これを聞いた秀吉は激怒し、義統
を「豊後の臆病者!」と罵(ののし)り、遂に改易処分にしたのである。秀吉の示した
改易理由は、朝鮮での戦線離脱のみならず、天正14年の島津軍侵入に際して、豊前の
龍王城まで逃亡したという過去の不始末も含まれているものだった。という。こうした
過去があって、立花氏の帰郷は行われている。つまり、明治維新も関ヶ原の戦いも実は
大きく天草と関わりがあったのである。その出先に沖の端港があったのである。
0032名無しさん2021/05/14(金) 10:38:12.07ID:RMSG3u7l0
郷土の歴史 ・・・・56

沖の端港は、小さい漁港で千石船は入れなかった。そこで昔から筑後川河口の大川港の
利用が過去からの大きな権益の境として紛争があったとされる。秀吉の九州征伐ででも
大きくこの地があった。日田の金山を預かる前まで、英彦山権現として、宿坊から日田
を向けて下山すれば、常に筏が3日に一回は木々を送り出していたと言われる。秀吉が
朝鮮征伐に行く時この宿坊に訪れたのが石田三成だった。豊臣政権の奉行として活動し
、五奉行の一人で主に兵站の任で大きな実力を持っていた。豊臣秀吉の死後、徳川家康
打倒で決起して、毛利輝元ら諸大名と西軍を組織し、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都
六条河原で処刑されたが、羽柴秀吉が織田信長に仕え、近江長浜城主となった天正2年
(1574年)に、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕えて、秀吉が信長の命令で中国攻め
の総司令官として中国地方に赴いた時傍にいた。秀吉の関白就任で、従五位下治部少輔
に叙任し、天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行
の半分を与えて召し抱えたといわれる。この島を従えて英彦山の山を切り出したい。と
やって来たのである。関東攻めでも、北条氏の支城はほとんどが先に陥落し、小田原の
本城と、忍城のみだった。小田原開城後の7月初旬まで忍城では戦闘が続いき、三成は
取次として常陸国の佐竹義宣に、秀吉に謁見するのを斡旋し終了した。
0033名無しさん2021/05/14(金) 10:38:29.80ID:RMSG3u7l0
佐竹氏は出羽の
三山の守り神として君臨し、奥州から嫁を貰い伊達家の拡大を止め、小田原の北条とも
対立した地政学的には両雄に囲まれ背に太平洋山に那須家と対峙した福島の地の太田城
の領主だった。この佐竹の変心を抑えて、小田原攻めが成功し、これによって伊達家は
遅参し白装束で秀吉に命を乞う形になったのは周知のとおりである。この後奥州仕置に
入り奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績を石田は
進めて、天正19年(1591年)4月、近江佐和山に入城する。これは蔵入地の代官の資格
での入場で、城を預かる城代としての入城であった。当時は、三成の所領は美濃国内、
安八郡神戸とその周辺にあった。これが佐竹の悪さを拡大させた。この頃朝鮮に行く船
は多くが明軍によって沈められ 船が不足し兵站が途切れていたのである。その為の木
がどうしても必要だったのだ。
0034名無しさん2021/05/14(金) 19:27:30.62ID:RMSG3u7l0
郷土の歴史 ・・・・57

この佐竹氏の歴史を調べていくと面白い事に行き着く。佐竹氏は常陸源氏の嫡流であり
武田氏に代表される甲斐源氏と同族であるとされ、通字は「義」。佐竹氏は家紋として
定紋の「扇に月」所謂日の丸扇と呼ばれている家紋で、秀吉は好んであっぱれあっぱれ
と踊りや遊興に使ったとされる。日の本一の黒田節でもこの日の丸扇を伝統としている
。平安時代の後期には、佐竹氏は既に奥七郡と呼ばれる多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・
佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配し、常陸に強い勢力
を築きあげ、常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。
また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入す
るなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。とされる豪族である。しかし、
佐竹氏はその勢力の大きさから、鎌倉公方を主君とした足利将軍家や鎌倉公方の争いに
巻き込まれることも多く次第に部族結束も疎ましがられその公権力は縮小する。内紛も
あり、脆弱さのまま戦国時代に突入し、佐竹氏の常陸統一の戦国大名化も遅れていく。
甲斐武田氏と同盟して、やっと北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻で対決したて名乗
りを上げたが、最終的には秀吉の下で小田原征伐の露払いの将となり北条氏の包囲網で
持ち場を得ている。こうした事で秀吉には懇意であったと思われる。更に家康は秀吉の
江戸への移封に簡単に応じている事から、相当江戸の開発には確信を持ち地理的知識を
持っていた。と思える。家臣すら驚くこの命令に簡単に頭を下げて従ったのであるのだ
。家康は普段から厭離穢土欣求浄土(おんりえどきんきゅうじょうど)って言っていた
ようだ。これは現世の穢れた悪から逃れて仏教において、五濁や地獄・餓鬼・畜生の三
悪趣が無く、一切の煩悩や穢れを離れた仏や菩薩が住む清浄な国土に住みたいという、
願いの呪文の様な言葉だが、家康は荒れ地の江戸のこと穢土建設とでも思って、都合が
好い。戦で友を死なせるよりは、土木建設で庶民を楽させる様に国土建設しよう。など
と思っていたに違いない。
0035名無しさん2021/05/14(金) 19:27:59.08ID:RMSG3u7l0
郷土の歴史 ・・・・58

佐竹義宣は、秀吉の権威を背景に江戸氏・常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人たちの
いわゆる南方三十三館、主として鹿行両郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏
など万石未満の土豪を討伐するなど領主権力の強化を進めてきた武将だ。こうした事で
、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将と呼ば
れるまで大きな兵力と土地を得ている。これに徳川家康が憤怒し闘いながら、愛知に居
を得て安泰かと思えた中で江戸の開発を仰せられ、関東支配を行う事になったのだ。先
に佐竹氏が唾つけて小さな国人衆をまとめ、大阪に向ける兵力に後ろからにらまれる形
が整った。と秀吉側は思っての采配であるようだ。また、佐竹義宣は、天正18年(1590
年)12月23日、秀吉の執奏によって従四位下の位を賜り、侍従・右京大夫に補任され、
天正19年(1591年)秀吉から羽柴姓までを与えられたほど信任は厚い。石田三成は文禄
元年(1592年)の文禄の役の朝鮮出兵に渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留
して朝鮮出兵の総奉行を務めたが、兵站が滞り散々な目にあっている。文禄2年(1593
年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加し、その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一
貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉には積極的役割を果たしている。
がしかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら
武断派の反発を招いてしまった。佐竹氏も天正19年(1591年)秋に秀吉が唐入りのため
各国大名に出兵を命じた時 5,000人の出兵を命じられ朝鮮に行こうとした。この軍役は
文禄元年(1592年)翌文禄2年(1593年)秋まで約21ヶ月間続き、当初の軍役は途中で
3,000人に軽くなったが「御軍役役弐千八百六十九人」と名護屋陣中より報告されたのだ
。こうして当初、名護屋城に到着し文禄2年(1593年)春に義宣は朝鮮へ渡るように命
じられたが、足止めされ、先陣の佐竹義久が1,440人を率いて名護屋を出航した後には
佐竹義宣に対して渡海を見合わせるよう連絡があって義宣自身が朝鮮に渡ることはなか
った。とされる。
0036名無しさん2021/05/15(土) 00:25:07.82ID:EzDU99Yh0
郷土の歴史 ・・・・59

こうした事の謎が「敵は本能寺に在り」とした、明智氏の信長討ちの本能寺の変で解明
できる。明智氏は外様衆で、相当な格式と地位があった。外様衆とは将軍の直臣でもあ
った。土岐明智氏もまた土岐氏の支族であるがゆえに、外様衆に加えられたのであろう
。とされる。室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺され
ると、弟の義昭が姉婿の若狭国守護・武田義統のもとに逃れた。その直後から義昭は、
織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長
は了承したが、当時は、どこの土地においても必ず「国人衆」という、地域の中間的な
支配者が存在していて、そこの領民達は国人衆などによって支配され、その国人衆らは
領主によって支配されるといった形が、鎌倉時代後期あたりから続いていた。明智光秀
は、この様な古い体制を排除し、その土地のことをよく知る国人衆たちを家臣として取
り立て、代官に任用している。無駄を省き、人材を上手く活用した光秀の政治手腕だっ
た。つまり、明智も佐竹も鎌倉室町の将軍の護り役の家柄で、共に戦国時代で将軍を守
る事に必死な家柄だった訳だ。明智が収めた福智山の裾野を流れる由良川が、土師川と
合流する地点ではは、たびたび氾濫を起こしていいるのを彼は止めた。天正8年(1580
)に明智光秀は福智山城下の建設に伴って、河川の氾濫を防ぐために由良川の流れを大
きく北に付け替えるという大規模な治水工事を施し、その際に築かれた堤防は「明智藪
」と呼ばれ、領国経営の根幹をなしたこの工事の功績により、光秀は丹波衆によく慕わ
れ、人気を評していた。まるで北風と太陽、大天使ミカエルと堕天使ルシファーの話で
ある。こうした明智に、宣教師フロイスの明智批判は強い。完訳フロイス日本史』から
拾い上げてみた明智光秀は、才略、思慮、狡猾さを持っていて全ての者から快く思われ
ていなかった。裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷である。己を偽装するのに抜け
目がなく戦争においては謀略を得意とする。信長の情に訴えるために信長を調べ上げ、
必要ならば面前で涙も流す。人を欺ぬための72の心得を体得していると周囲に自慢する
。としている。と至って批判的だ。
0037名無しさん2021/05/15(土) 00:25:30.59ID:EzDU99Yh0
郷土の歴史 ・・・・60

フロイスの日本史では『明智は悪魔とその偶像の大いなる友であり、我らに対しては、
いたって冷淡であるばかりか悪意をさえ抱いており、デウスのことについてなんの愛情
も有していないことが判明していた。』などと批判的攻撃的に書いている。更に信長の
謁見の際には『悪魔は早速、司祭やキリシタンたちが何らの不安もなく気楽に過ごさな
いようにと、その仕事を開始した。すなわちまず、公方を殺し司祭を追放した松永霜台
が信長ならびにすべてのかの殿たちが、彼(司祭)を迎えたのを見たとき、信長に対し
、殿が、街にとって危険な存在であるあの人物を呼び戻すよう命じ給うたのには驚き入
っている。(伴天連が説く、かの呪うべき教えが行きわたるところ、常に、国も街も、
ただちに崩壊し滅亡するに至ることは、身共が明らかに味わったところである、)と、
述べた。これに対し彼は答え「汝霜台、予は汝の如き老練、かつ賢明の士が、そのよう
に小心怯懦な魂胆を抱いていることには驚くものである。たかが一人の外国人が、この
大国において、いったいいかなる悪をなし得るというのか。予はむしろ反対に、いとも
遠く、かくも隔たった土地から、当地にその教えを説くために一人の男がやって来た事
は、幾多の宗派があるこの街にとって名誉なことだと思っているのだ。」と述べた。そ
して信長は(側の)一人に不快な顔つきをしたので、霜台はそれ以上一言も語らず、も
はや眼を上げようともしなかった。かくて彼は何ら返事をしないで沈黙した』と、その
時の雰囲気を書いている。松永霜台とは松永弾正の名で知られる松永 久秀(まつなが
ひさひで)の事で、畿内の争いで一時敗れても阿波に帰らず、越水城主として摂津下郡
半国の守護代になり、初めて畿内での統治を行った際に外様の家臣として取りたてられ
活動していた。当時三好軍の指揮官として、木沢長政の討伐後なおも蠢動する大和国人
の残党を討伐する役で、山城南部に在陣した記録があり、この頃には官僚だけでなく、
武将としての活動した過去を「公方を殺し司祭を追放した松永霜台」と評したのである
。つまり足利義昭の将軍家の話しで、公家方を征伐したことを悪魔としているのに、そ
の首謀者たる信長を賛美して配下の明智に悪魔と評しているのだ。
0038名無しさん2021/05/20(木) 11:58:38.80ID:/3NPyBed0
 郷土の歴史 ・・・・62

 佐竹惟政はキリスト教を自領内にくほど手厚く保護した。『フロイス日本史』には、
フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務め、教会に兵を宿泊させないようも、
他の武士たちに働きかけ、内裏が伴天連追放の綸旨を出すとそれを撤回させようと動く
。宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせ、大変な熱意だった。畿内におけるキリ
スト教の布教に積極的に協力したが、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死したのだ
。その死をフロイスは大変嘆いたのだが、キリスト教と出会う前は禅宗に属していた。
ここらに日本の歴史の本質がある。かつては、ポルトガル船が長崎にきた1549年が日本
の布教元年の様に語れてて、歴史のトピックにされてフランシスコ・ザビエルが日本を
訪れキリスト教布教活動を行った。とされその後に、織田信長らの庇護のもと両国間で
南蛮貿易が開始され、1557年のマカオ居留権を獲得したポルトガルが九州を拠点に貿易
を展開していった。とされた。しかしもっともっと早く、大航海時代以後ポルトガルは
積極的な海外進出でブラジルを中心として国力を伸長させていた頃から、16世紀初めに
は既に東南アジア進出を果たし、日本近海の活動も広げていた。その中で1541年夏に、
ポルトガル船あるいは明船が、豊後の神宮寺浦に漂着したのが日本へのポルトガル人の
最初の上陸であった。と目される。その後も1543年、種子島へポルトガル商人が漂着し
、鉄砲伝来が起こり当時の、アジア地域へ植民地・奴隷の確保、及び貿易相手国を求め
入植・進出を行って、当初からポルトガル人による日本人奴隷貿易が行われていた。と
思われ。日本との接触や通商を求める商人の動きは、各所にあったのだろう。というの
が今の歴史的見方だ。貿易はキリスト教布教の為に行いキリスタンの布教拡大戦略があ
り、貿易商人はその資金を得て多くの宣教師を乗せ日本を訪れている。ポルトガルから
は多くの製品、文化が日本に流入し、日本からは銀などがポルトガルへ流出したと見ら
れ同時に、1549年に九州にフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を
行ってキリシタン大名が誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。
0039名無しさん2021/05/20(木) 11:58:39.29ID:/3NPyBed0
 郷土の歴史 ・・・・62

 佐竹惟政はキリスト教を自領内にくほど手厚く保護した。『フロイス日本史』には、
フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務め、教会に兵を宿泊させないようも、
他の武士たちに働きかけ、内裏が伴天連追放の綸旨を出すとそれを撤回させようと動く
。宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせ、大変な熱意だった。畿内におけるキリ
スト教の布教に積極的に協力したが、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死したのだ
。その死をフロイスは大変嘆いたのだが、キリスト教と出会う前は禅宗に属していた。
ここらに日本の歴史の本質がある。かつては、ポルトガル船が長崎にきた1549年が日本
の布教元年の様に語れてて、歴史のトピックにされてフランシスコ・ザビエルが日本を
訪れキリスト教布教活動を行った。とされその後に、織田信長らの庇護のもと両国間で
南蛮貿易が開始され、1557年のマカオ居留権を獲得したポルトガルが九州を拠点に貿易
を展開していった。とされた。しかしもっともっと早く、大航海時代以後ポルトガルは
積極的な海外進出でブラジルを中心として国力を伸長させていた頃から、16世紀初めに
は既に東南アジア進出を果たし、日本近海の活動も広げていた。その中で1541年夏に、
ポルトガル船あるいは明船が、豊後の神宮寺浦に漂着したのが日本へのポルトガル人の
最初の上陸であった。と目される。その後も1543年、種子島へポルトガル商人が漂着し
、鉄砲伝来が起こり当時の、アジア地域へ植民地・奴隷の確保、及び貿易相手国を求め
入植・進出を行って、当初からポルトガル人による日本人奴隷貿易が行われていた。と
思われ。日本との接触や通商を求める商人の動きは、各所にあったのだろう。というの
が今の歴史的見方だ。貿易はキリスト教布教の為に行いキリスタンの布教拡大戦略があ
り、貿易商人はその資金を得て多くの宣教師を乗せ日本を訪れている。ポルトガルから
は多くの製品、文化が日本に流入し、日本からは銀などがポルトガルへ流出したと見ら
れ同時に、1549年に九州にフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を
行ってキリシタン大名が誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。
0040名無しさん2021/05/20(木) 12:01:26.51ID:/3NPyBed0
 郷土の歴史 ・・・・63

 1541年の鉄砲伝来時代には、九州争乱の終了期である。1543年に海商で倭寇でもある
王直の船が種子島に漂着し、ポルトガル人も乗船していたことが貿易のきっかけとなっ
た。と言う事が判明している。ポルトガル船はその前年に琉球王国に到着していたが、
琉球人はポルトガルがマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、貿易を拒否し、
琉球戦争が起こっていた。ポルトガル船の船長の一人ジョルジ・アルヴァレス(既出の
明に初上陸した人物とは別人)は、薩摩の山川で人を殺めたことに悩むヤジロウを載せ
てマカオへ向かい、インドのゴアで宣教活動をしていたフランシスコ・ザビエルに引き
あわせて懺悔させた。という。これがザビエル来日のきっかけとなってヤジロウは日本
人初のキリスト教徒と言われている。ザビエルは、日本に布教をするために日本三津の
一つである薩摩国の坊津に到着して、のちに平戸、山口、豊後国に行き布教を始める。
南蛮貿易の港は平戸と豊後から始まり、九州の諸大名はポルトガルとの貿易を受け入れ
た。と言われる。ところが柳河(柳川)地域を中心とする下筑後(筑後南西)地方は、
鎌倉時代から戦国時代末期まで蒲池氏の領地であり、次いで蒲池氏を滅ぼした龍造寺氏
が一時期支配する歴史をみるが、肥前佐賀郡の国人として古くは九州千葉氏に仕えてい
た竜造寺氏の歴史では、既に竜造寺を匿うに当たっての蒲池氏は 大友門下でありなが
ら逆らって竜造寺氏を僧の地位にあるとして匿っている。柳川城の最初の築城は、蒲池
城主・蒲池治久が1500年に支城の出先の砦としてしていた柳川城を本格的築城を考えて
蒲池城からの移居を考えて築城に至った。といわれる。のち、筑後十五城筆頭として、
筑後を納めた12万石の蒲池鑑久、あるいは蒲池鑑盛(蒲池宗雪)が柳川城を本拠地とし
、本格的に造営したのは蒲池鑑盛となり、城の周囲に水路を縦横に張り巡らせて、九州
屈指の難攻不落の城としたので、築城の知識もかなりあった。とされる。この分家の、
拙僧龍造寺が 心が鬼になって 佐賀を蹂躙し養父や匿ってくれた柳川を襲っていく。
0041名無しさん2021/05/20(木) 12:04:20.78ID:/3NPyBed0
 郷土の歴史 ・・・・63

かつて、南北朝時代に、建徳2年/応安4年(1371年)からは九州探題となっていた今川
貞世を支援して九州に進出を果たして、大宰府攻略や南朝勢力の攻略に戦功を挙げた。
こうして、太宰府長官の大宰権帥としての大宰少弐(だざいのしょうに)氏の地位は、
地に堕ちる。『武藤氏系図』によれば、藤原道長の後裔で 代々武蔵国に知行を持ち、
「武蔵の藤原」を略して武藤氏を称した。鎮西武士たちの興亡を記した『北肥戦記』に
は、武藤氏の家紋について「左中将尾張守藤原長頼は、相伝の知行地である武州戸塚郷
に下り、武州の藤原であるから武藤中将と名乗ったと言う。その子孫頼氏は、八幡太郎
義家に従って奥州に出陣し、寄懸の紋の旗を賜った。」とある。これによれば、少弐氏
は道長流武藤氏の後裔ということになる。そもそもの太宰府の成り立ちからも九州政庁
と言うよりは日本の護りとしての地位があったのだ。元寇でも何でも、ここを司令塔に
した前線基地として京都の大和朝廷は護られ動いていた。これに鎌倉幕府と言う武家の
集団がその権力系統を壊したのだが、元寇で又一転し、更に大友氏の台頭で菊池氏支配
が終わるのである。九州争乱時代の幕開けには、一色氏が退散し少弐頼尚が、幕府方に
転じ、大友氏と結んで、宮方と対立するのが大きな原因だった。正平十四年(延文四年
=1359)、頼尚は大友氏時と連合し宮方挟撃策に出て、対する菊池武光は、征西将軍の
懐良親王を奉じ四万の兵を筑後平野に出陣させた。筑後川沿いに、高良山・柳坂・水縄
三ヶ所に布陣し、少弐一族、松浦党、龍造寺氏など六万の兵をも擁して味坂に陣を布い
た。戦いは激戦で、少弐軍の大敗に終わり、宮方も懐良親王が深手を負うほどの損害を
受け、太宰府に敗走する少弐軍を追撃することはできずに終わる。この戦いは、筑後川
の戦い大保原合戦と呼ばれ、日本三大合戦のひとつに数えられる。以降菊池武光は懐良
親王を奉じて大宰府へ進出し、正平十六年、大宰府を征西府として九州宮方の本拠とし
て以後、十数年にわたって九州宮方は全盛期を迎えたものの、京都での北朝の動きは、
止めれなかった為に 北の朝廷軍にじりじりと敗退するのである。
0042名無しさん2021/05/20(木) 12:12:23.54ID:/3NPyBed0
 郷土の歴史 ・・・・64

 九州の情勢を重くみた幕府は、新たな九州探題に今川了俊を登用し事態の収拾に当た
らせた。今川了俊はすでに幕府の重鎮であり、文武兼備の将として知られた存在で諜報
活動を主に強くあった。この事態に際して、頼尚の子冬資は今川了俊を九州探題として
迎え、弟頼澄が西征宮懐良親王に従うというように、少弐氏内部で南北の分裂もみられ
る事になる。かつて、蒙古(元)が襲来した文永・弘安の役では、少弐経資・景資兄弟
は目覚ましい活躍をし、景資は九州の守護・地頭を指揮して敵将の劉復亨を討ち取る。
という殊勲すら挙げた家柄だが。弘安八年(1285) に筑紫郡の岩戸城に拠り、兄の太宰
少弐経資に反旗を翻す。経資は直ちに討伐軍を繰り出し、岩戸城を攻撃し、この合戦は
が鎌倉で起った霜月騒動に連動したものであった事から。北条得宗の御内人で内管領を
つとめるか、有力御家人安達泰盛で幕府御家人となるか、を二分する擾乱の九州版とな
っていた。結局安達方の敗北、景資は泰盛方につき、これに筑前・豊前の武士たちが、
味方した。景資らの所領は没収され、九州の御家人に恩賞として与えられた。岩戸合戦
とよばれるこの争乱は、元寇の乱後の恩賞捻出に苦慮した幕府が仕組んだもの。ともい
われる。おそらく、その通りで混乱を納めるべく幕府は九州地方の政務や裁判など進め
るため博多に鎮西探題を設置したみれる。ところが、その長官である探題には北条一族
が任じられ、その下に評定衆・引付衆・引付奉行人が置かれ、宇都宮氏、東郷氏ら九州
の有力な御家人が任命され、旧勢力や蒙古(元)軍に華々しい成果を持つ者は遠ざけら
れた。鎮西探題の設置は、これまで鎮西奉行として、太宰府の長として九州に勢力を有
した少弐氏の機能・権限は著しく低下させその後、得宗専制政治が強化されるにつれ、
少弐氏は筑前守護に任じられるばかりとなり少弐氏と並んで九州三人衆とよばれた薩摩
の島津氏、豊後の大友氏らも同様で、かれらの北条氏への不満は募っていく。
0043名無しさん2021/05/20(木) 12:12:47.24ID:/3NPyBed0
ここに及び
得宗専制政治による矛盾が顕在化し、こうして時代は不穏な空気に包まれて戦国時代に
陥る事になっていくだった。この戦国時代に入る時に1405年の第1回から1430年の第7
回までの鄭和の南海遠征が起こっている。中央の支配が支配し易い太鼓持ちを任用して
頑張った者が 任用も恩賞の土地も貰えずここに爆発する。世の常だが当然である。
0044名無しさん2021/05/22(土) 01:20:47.39ID:rgH0iF/30
 郷土の歴史 ・・・・66

 馬場頼周は斜陽の少弐氏に仕え、大永4年(1524年)宿敵大内氏に属した岳父・筑紫
満門を謀殺する等の非情な手段も辞さなかった人物だ。享禄3年(1530年)に、田手畷
の戦いで、杉興運率いる大内軍の撃退に貢献したが。その後、龍造寺氏が主家を凌いで
台頭している。龍造寺家兼は少弐氏を裏切って大内義隆に通じ、天文4年(1535年)、
少弐資元を自害させるのを黙認したといわれる。家兼は資元の遺子・冬尚と和解して子
・家門ら一門と共に重臣として仕えていた。しかし、過去の裏切りと現在の威勢に義憤
を覚えた頼周は、天文14年(1545年)に謀略をもって家兼の一族の大半を誅殺する事に
成功する。頼周は龍造寺一族を謀略により容易く討ち取れた事に喜悦し、討ち取った6
人の首級を踏み付けるなど不敬な扱いをしていたようだ。頼周父子は、家兼を追放して
祇園岳に城を築き統治しようとした。しかし、天文15年(1546年)、筑後国の蒲池鑑盛
の下に逃れた龍造寺家兼が挙兵する。千葉胤連もこれに合力した。こうして龍造寺氏の
残党が蜂起すると、祇園岳城が建造中であったため防戦できず、綾部城へ帰還しようと
した。しかし千葉勢の追撃を受け、子・政員は野田家俊に討ち取られ、頼周は社家に走
り込み芋釜の穴に隠れたが、加茂弾正という者に穴より引き摺り出されて殺害された。
家兼は祇園岳へ向かう途上の坪上という地で頼周と政員の首級を検分する。なお、政員
の室は家兼の孫娘であり、馬場父子の首は家兼に丁重に葬られた。頼周死後の馬場氏は
遺された孫・鑑周が跡を継ぎ、後に許され再び龍造寺氏に仕えた。しかし、鑑周も永禄
12年(1569年)に大友氏が攻め寄せた際に寝返るなど、龍造寺氏への抵抗を続けた様だ
。実はここに一つの不思議がある。馬場一族は「馬場」の名が示す様に飼育馬の統率で
名を馳せた一族である。馬場頼周を『治乱記』には「博学にして才知あり、忠心深く、
また下賤を憐れみし者なり。龍造寺の一家を討ち取りしことは、少弐に対して謂れある
事なり」と馬場頼周の賛美を評している。
0045名無しさん2021/05/22(土) 01:21:08.91ID:rgH0iF/30
馬場氏は少弐氏の一門であり、少弐教頼の弟
・頼経を祖とし周防国の大内氏の圧力により勢力を弱め肥前へ拠点を移した少弐氏だ。
かつての九州探題であった渋川氏を圧迫し、肥前綾部城を奪取し、一門である馬場氏を
城主とし、統治を固めた。とされる。
0046名無しさん2021/05/22(土) 01:21:12.44ID:rgH0iF/30
馬場氏は少弐氏の一門であり、少弐教頼の弟
・頼経を祖とし周防国の大内氏の圧力により勢力を弱め肥前へ拠点を移した少弐氏だ。
かつての九州探題であった渋川氏を圧迫し、肥前綾部城を奪取し、一門である馬場氏を
城主とし、統治を固めた。とされる。
0047名無しさん2021/05/22(土) 01:21:59.97ID:rgH0iF/30
 郷土の歴史 ・・・・67

田手畷の戦い (たでなわてのたたかい)は、享禄3年(1530年)、北部九州の覇権をめ
ぐり周防国の大名大内氏と肥前国の大名少弐氏との間で起きた戦いとされる。大内氏と
少弐氏とは、室町時代を通じて北九州(大宰府)の覇権を争う宿敵同士であったのは、
先に述べた様に、鎌倉朝廷の新たな九州探題を任命した事による。京都の旧来の宮方の
臣下や配下では、青天の霹靂のような権威の移譲で 新旧の勢力が競ったことによる。
明応6年(1497年)には大内義興は少弐政資を滅ぼして、鎮西の覇者であった少弐氏を
肥前の一地方勢力に転落させることに成功した。大内義隆(義興の子)は、宿敵の少弐
資元(政資の子)に止めを刺すべく筑前国守護代杉興運に命じて大内方の北九州の諸将
を率いさせ、資元の居城肥前勢福寺城を攻撃させた。少弐方の諸将(龍造寺家兼や馬場
頼周など)が奮戦する。が兵力で劣勢の少弐勢は、敗色が濃厚であった。しかし、鍋島
清久・清房父子や石井党らが率いる赤熊(しゃぐま)奇襲隊の活躍もあって、遠征して
きた興連を敗走させた。大内方は横岳資貞・筑紫尚門などが戦死している。この戦いの
後、佐賀平野南部の有力領主らを味方につけ戦勝に貢献した龍造寺氏が、少弐家中での
発言権を強め、戦国大名化していく契機となった。この勝利に勢いづいた少弐氏は逆に
大宰府に侵攻するなど一時勢力を回復させた。が、大内家の周防国守護代陶興房が九州
に乗り込んでくると再び劣勢になり、さらには義隆が自身で大軍を率いて攻勢をかけて
来ると、頼みの家兼にも見放された。こうして天文4年(1535年)には、資元は自刃し
て果てたため、少弐氏は一時滅亡したのである。戦闘の始まりは、1530年8月15日の盆
に神崎平野の田手川で起こっている。この川べりは吉野ケ里遺跡の外環状川に当たる。
北部九州の長官であった少弐氏が、本州山口を本拠とする大内氏の侵攻を受けて、筑前
大宰府を追われたのだ。一時は滅亡寸前まで追い込まれ筑後や佐賀に追われた。しかし
1528年に少弐資元が幕府の協力を得て大内氏と和睦、その後肥前国人衆の支持を受けて
勢力を回復すると、警戒した大内氏が少弐にとどめを刺すべく再侵攻に及んだのだ。
0048名無しさん2021/05/22(土) 01:35:36.72ID:rgH0iF/30
 郷土の歴史 ・・・・68

 圧倒的な物量に押される少弐資元は、大内軍を率いる杉興運に押されまくり、ついに
は一族にも背かれ、本拠地である肥前神崎郡まで攻め込まれる。少弐の劣勢を見た肥前
国人衆も多くが大内方に回り、籠城も不利となった少弐資元は、籠れぬなら打って出る
しかないと迎撃を転じて、龍造寺家兼、小田、執行といった佐賀周辺の国人に出陣を命
じたがこのとき、総大将である少弐資元ははるか後方、多久の梶峯城に居たのである。
 実はこの時に筑後にも多くの城が打ち壊された。久末白鳥城、百町花園城 吉開富丸
城、田脇吉丸城 船小屋鶴田城 溝田城 西牟田城 牟田支城富久 久富城 ・・・・
などだ。その数は計り知れないほど大きかった。およそ12万の軍勢が合戦に晒された
。結果は開戦当初から敗けが決まっていた。一説には佐賀方面は1万ともいわれる少数
精鋭の大内軍に劣勢に立たされる少弐勢だったが、筑後でも多勢に無勢で押し切られる
。しかしこの時に、龍造寺に従う鍋島、石井らの率いる伏兵による奇襲攻撃が成功して
いる。不思議な いで立ちをした集団が祝って踊り突如切り込み、大内方の先手武将の
筑紫尚門や、朝日頼実を打ち取る大戦果をあげる。突如あらわれた敵にいきなり将を討
たれた先陣は大混乱し、そこへ龍造寺を始めとする少弐本軍が突撃し勝負ありとなり、
結果として名のある将を含め八百ともいわれる首級をあげて大勝する事になった。こう
して龍造寺の名は肥前のみならず、九州北部、そして山口にまで轟くことになった。ち
なみに、この際に活躍した鍋島清房に嫡男の娘を嫁がせて一門扱いとし、佐嘉本庄の地
八十町を与えたとされる。この鍋島が後の佐賀鍋島藩へと繋がっいく。馬場氏はこの後
この戦果から大川を戦場として 万歳橋はこの勝利に万歳したとする場所である。また
三橋の今は二ッ河と称される沖の端川や毛来川は、この時の毛利の一軍が作ったとされ
、それは大橋氏や石橋氏を連れて、大塔家の柳の宮(現二ッ河小学校)を攻めた事によ
る為である。
0049名無しさん2021/05/30(日) 03:11:57.55ID:od2NAdWL0
 郷土の歴史 ・・・・69

 基本的には今だ田手畷の戦いがどこで発生したのか、正確な位置は分かっていない。
あくまで推測で、この田手草の生える近辺で現在吉野ケ里遺跡がある田手川の付近と言
われている。ここは龍造寺隆信が少弐攻めを行った時にも、少弐方が籠った吉野ケ里の
日吉城があった場所で、明治初期における佐賀の乱でも東方向から攻めて来る官軍を防
ぐ最終防衛ラインとして最大の激戦地となった場所でもある。古代官もここを通り、切
通しを設け防衛拠点としての役割を持っていたとも言われます。そもそも筑後・佐賀は
クリークと言われる水路だらけ、江湖とよばれる川なんだか池なんだかよく分からない
巨大な水たまりの掘割が各所に点在し、満潮時や水門操作で水があふれかえって馬掛り
が出来ない仕組みで防備していた。水浸しみたいなそんな地域で よそに対して強くあ
ったが、鉄砲伝来と共にその戦いが変わる。柳川氏は姉川氏と共に川辺の民であった。
蒲池氏がこの地で蒲池城にその地位を確定してたが、その頃は英彦山の修験道者の伽藍
と宿坊などが柳川を覆うほどの陰陽道、即ち山岳宗教の街であった。これは別に柳川に
限った事でなく、市場や神社はその信徒で溢れて街になってる。その海運の便のよさや
水利や稲作など食糧調達が開けたところが賑わいの地となる。長崎氏は桓武平氏千葉流
(九州千葉氏)の流れをくむ氏族で、長崎県・長崎市の名の由来になったと言われる。
しかし戦国時代血脈は途絶え、肥前有馬氏から有馬康純が養子に入り、長崎氏を継いで
いる。孫の長崎純景はキリシタンに改宗して、岳父大村純忠はキリシタン大名となって
、長崎をイエズス会寄進することを勧められ、これを受け入れた。こうして長崎一帯の
領地をイエズス会はせしめた形になった。長崎純景は大村氏に仕え、子孫も大村藩士と
なったが、その後長崎氏本家は絶えている。分家の長崎十人組に、中村氏や長崎戸町の
代官の松尾氏(長崎御船手改支配)や、深堀鍋島氏支配下にあった長崎地侍の川本氏が
いる。この大村氏がこの地に攻め入ったとされる。
0050名無しさん2021/05/30(日) 03:12:24.00ID:od2NAdWL0
 郷土の歴史 ・・・・70

キリシタン大名で名を馳せた大村純忠は、深堀純賢と西郷純堯からの攻撃を受けるが、
このとき、深堀純賢は長崎氏を攻撃し、長崎氏の館や村、教会を焼きはらったのである
。しかし、キリシタン武士や村落民の抵抗は強く、新兵器まで出現し潰し得なかった。
兵を引き揚げた形となり、純堯は大村純忠の戦死したとのデマが飛ぶ程攻め立てたが、
純忠はこうした鉄砲などの反撃によって、西郷氏の兵を引き上げさせるのに成功した。
兄の、純堯は熱心な仏教徒であり、キリシタンを信仰する大村純忠に反感を持っていた
。純堯は武力によらず、計略を用いての純忠を殺害を計画し、大村氏領を併呑しようと
画策する。天正元年(1573)、純堯は純忠の実兄にあたり当主だ。有馬義貞を手中に抑
え、義貞に命じて純忠を誘殺しようと企んだ。がしかし、義貞は弟の純忠を不憫に思っ
て純堯の謀略を知らせ純堯の純忠に対する憎悪の主な原因は純忠のキリスト入信した事
であると伝え、キリシタンであることを止めれば、純堯と敵対することもなくなるとの
忠告をした。これに対して純堯は、自分がキリシタンである事には異義を唱えないでい
ただきたい。自分は領国・家・家臣。および生命を失っても、棄教はしない、と断固と
断る態度をもって答えた。純堯は純忠が高城城下を通るときは、自分に儀礼的訪問を行
うものと確信し、かれの来るのを手ぐすねひいて待つ。がしかし、純忠は純堯の策に乗
らず、純堯には病のため今回は訪問できないと伝え、城下を馬で疾駆してあやうく純堯
の謀略にはまる難儀を逃れた。その後も深堀・諌早西郷氏による大村・長崎氏攻撃は、
断続的に行われ、その都度、大村氏は、援軍を純景に送り攻撃は退けられた。天正八年
(1580)の戦いでは、大村勢が百五十名で長崎氏方に来援して西郷勢を打ち破っている
。西郷は地元漁民村の農士である。半農半漁の生活で村を守る村長を務めていた。北方
からの凶賊の海賊が船を繰り出しては、漁村は焼き討ちなどの壊滅的打撃が、日本国中
にあって、敢えてそれを抑える為の関東武者が兵として送り込まれ、仕方なく地元民は
それらに村長(むらおさ)の地位を与えて自治と防衛を託していたのである。しかし、
鉄砲伝来や黒船の相手ではなかったのだ。
0051名無しさん2021/05/30(日) 19:44:59.64ID:od2NAdWL0
 郷土の歴史 ・・・・71

 実はこの深堀純賢氏はとんでもない曲者で、相模三浦氏、及び和田氏の流れを汲む。
深堀氏は、和田仲光の代に上総伊南荘深堀に移り深堀氏を名乗った関東武者だったのだ
。仲光は承久3年(1221年)、承久の乱で幕府方として戦い、鎌倉幕府からの恩賞地を
拝領したが、更に子の深堀能仲は恩賞地の変更を幕府に要求する。建長7年(1255年)
、体よく追い払われ、肥前彼杵荘戸八浦の新補地頭となった。戸八浦は上総国から遠く
この荘園を子の深堀行光に任せた。という曰く付きの物件だった。行光は子の深堀時光
を代官として戸八浦(後に戸町浦)に派遣し、以後、時光の系統が戸八浦に在住して、
地名も深堀と呼ばれるようになった。という。この「承久の乱」こそは、日本史上初の
朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いとされ、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐
に配流された事件である。以後、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視
する六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになるなど、幕府主導の政治
体制を固めて、各地に波紋を残した。平安時代後期は「保元の乱」や「平治の乱」など
乱れて末期を迎えた。貴族階級衰退と武士階級の台頭での乱れである。1185年に初めて
の武家政権となる鎌倉幕府成立で、東日本を勢力下に鎌倉幕府が成立すると、西日本の
支配を保って食糧調達する朝廷という2頭政治が行われた。朝廷ではこの新興武家政権
の反感が募る。しかし、朝廷にとっては、身内の清和天皇の血を引き、源氏将軍が鎌倉
幕府を率いている間は武力行使には至れない。一方、鎌倉も幕府の2代将軍の頼家が、
1203年に幽閉されその後何者かに暗殺された。又、その跡を継いだ3代将軍の実朝も、
同じ様に1219年に鶴岡八幡宮の前で暗殺された。こうした事によって、頼朝以来三代ま
で続いた源氏の将軍は断絶した。実朝が暗殺された1219年以降は、北条氏が執権職にも
かかわらず鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至って室町時代が訪れる。朝廷は、武家
政権打倒と日本全土の統治回復を目指すこととなり、この2年後に承久の乱が起きた。
つまり、鎌倉から室町を画策し 成功して追い払われた関東の武将の子孫だった。遅き
九州進出者は先に元寇後に居ついた武将に固められ居場所はなかったのだ。
0052名無しさん2021/05/30(日) 19:45:32.16ID:od2NAdWL0
 郷土の歴史 ・・・・72

 大村氏に属した長崎氏は西郷・深堀勢の攻撃をよく撃退したが、長崎の地は天正八年
(1580)イエスズ会領となった。これは、大村純忠が長崎の地を教会領として寄進した
結果であった。すなわち、大村氏は龍造寺氏に降ったことで、長崎の地とそこから生ま
れる権益が龍造寺氏の手にわたることを防いで、長崎の地からあがる関税徴収権などの
特権を確保するため長崎の地を教会に寄進したのである。いずれにしろ、こうして長崎
の地は教会領となったわけである。キリシタン宣教師達は、鹿児島に上陸し、わが国に
キリスト教を初めて伝えた翌年の天文19年(1550)フランシスコ・ザビエルらが
平戸から山口に向かう途中、海路博多にたどり着きキリスト教が伝わった。とされる。
博多へは7〜8世紀に大陸へ派遣された遣隋船や遣唐船の出発港であり、後の時代でも
大陸との交易で多数の商人が博多を訪れる大陸文化の窓口、玄関口となっていたようだ
。弘治2年(1556)に大友宗麟(ドン・フランシスコ)が支配していた頃に博多で
イエズス会に教会と司祭館を建設する為の土地を与え布教活動を保障した。建設された
教会でバルタザール・ガーゴ神父が宣教を開始し大きく布教活動を行った。しかしなが
ら、永禄2年(1559)2月、勝尾城(現佐賀県鳥栖市)に拠る筑紫惟門などの熱心
な仏教徒の反対で、博多焼き打ちなどで教会等は罹災し、宣教師は豊後に避難する事に
なる。アルメイダの書簡によると博多の教会は常に不安定な状態で、これに対して豊後
・島原・平戸のキリシタンはよく信仰を守っていたので、大友宗麟の全盛期の1550年〜
1580年に、神父達は、豊後の府内〜野津原〜朽網くたみ・直入長湯(現在の直入町)〜
久住〜産山・田尻〜南小国・満願寺〜小国・宮原〜小国・杉平〜中津江〜兵戸峠〜菊池
・上木庭〜山鹿〜高瀬(玉名市)に至る山越えの陸路を、4日間の工程で有明海の高瀬
港に出て布教ルートを確保している。この有明海と言うのが味噌だ。鷹尾神社の田尻氏
が大友の手下でありながら龍造寺を匿ったのはそこにあった。竹崎氏が竹崎の地を元寇
の恩賞で拝命した話は有名だが、この西郷・深堀勢も又同じに辺地としてるこの地を、
貰って九州に来たのだが、食われず大村氏や配下の有馬氏の下にいたのである。
0053名無しさん2021/07/05(月) 17:25:01.94ID:l5w1GCJp0
 郷土の歴史 ・・・・73

 キリスト教は鹿児島に初めて上陸し、島津氏の前で宗教論争に及んだ。この話し合い
で、布教は、仏教の一部として認められ、出水近くに居を構えた。と伝えられる。しか
し、そこで住民の信仰は広がらなかった。理由は、改宗で救われる。としたキリスト教
も、先祖が救われるか。の問いに、死んだ人は救われないとしたからだ仏教では極悪人
でも死後は天国で子孫を見守るとする思想がある。花鳥風月の山岳宗教である拝火教、
即ち「けん教」の流れを宿していて、見返りの松や三途の川など 色々な死後の世界の
風景を持っていた。かつて平安期の陰陽道も拝火教も仏教も神道も山岳仏教も同じで、
既に日本国中が そうした完成された宗教観の中にいた。蕃神(ばんしん:異国の神)
とされる神に諸手を挙げてすがったのだが、違和感があったのだ。その後移り、長崎は
、戦国大名大村純忠は、ポルトガル人のキリスト教会派「イエズス会」に寄進されて、
平戸に教会を建てる事になった。そして イエズス会は長崎に布教しまくって、教会が
沢山つくられたのだったが、その分仏教破壊が現実になった。まるで長崎は外国風情の
様になった。そこに至るまでにポルトガル人は長崎県内の港を転々とした。1550年
平戸にやってきたが、1562年、続いてポルトガル人は西海市の北側、横瀬浦に行く
。1565年福田に引っ越しして、そして1570年、長崎に引っ越しする。そのころ
の長崎港らへんは人口2000人もいなかった。この引っ越しにつぐお引っ越しは政治
的理由もあったが、基本奴隷船往来の場所が必要だったからだ。ポルトガル人は姑息に
もスペインと通じてキリスト教布教と商売の根拠地を探しまわったのである。場所は、
当然密航出来る地が欲しかったのである。フランシスコ・ザビエルらは翌年に、平戸か
ら京に上がる決意をする。山口に向かう途中で海路で、博多にたどり着き、キリスト教
が博多に伝わった。
0054名無しさん2021/07/05(月) 17:25:28.77ID:l5w1GCJp0
 郷土の歴史 ・・・・74

 この頃日本は北前船があり、帆船の弁天船で佐渡〜下関〜淡路航路があった。その為
、独自の山道のルートでの、平戸〜豊前の布教は熱心に行い、今の大分〜有明海の道を
作った。この道はアルメイダ街道(キリシタンロード)と呼ばれた。宣教師アルメイダ
が通い「街道で一夜の宿をとった所では毎夜、私たちの話を聴こうとする異教徒たちに
説教した。」と記載している。街道沿いには多くのキリシタンが居たとされキリシタン
墓碑などが残されている。4日で大友支配下だった高瀬(熊本県玉名市)に至り3日間
滞在しその後に船で有明海を渡り島原・口之津・平戸に巡回して布教していたのである
。弘治3(1557)年3月、4百人のキリシタン信徒が府内教会に集まり、盛大に復活祭
(イースター)が行われた。復活祭とは、十字架にかけられて死んだイエス・キリスト
が3日後に復活したことを祝うキリスト教の重要行事である。最近になって、日本でも
イースターが知られるようになったが、日本で最初に行われた復活祭は、豊後の府内(
現在の大分市)であろう。天文10年(1541年)に尼子晴久率いる尼子軍では、毛利氏の
本拠である吉田郡山城を攻めた。大内軍の援軍を得た毛利軍に撃退された(吉田郡山城
の戦い)。この尼子氏による安芸遠征の失敗により、安芸と備後の国人衆は、尼子氏側
だった国人領主たちを含めて、大内氏側に付く者が続出した。この毛利と尼子の戦いは
知っての通り石見銀山(いわみぎんざん)の攻防であった。島根県大田市にある、石見
銀山は戦国時代後期から江戸時代前期にかけて、最盛期では日本最大の銀山となった。
(現在は閉山)上述の最盛期に、ナント日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推
定されている、その中で岩見銀山は日本産出の銀のそのかなりの部分を占めたとされる
。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん
)とも呼ばれたが、明治期に掘り尽くし以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱され
た。
0056名無しさん2022/12/10(土) 19:18:04.46ID:MdLafFpK0
書けるかな?
0058名無しさん2023/01/25(水) 16:52:48.18ID:f+wCCAvZ0
ただ今制限を設けております
0059名無しさん2023/02/03(金) 14:59:49.09ID:reUHEK/l0
(´゚д゚` )アラマァ
0061名無しさん2023/03/05(日) 22:10:57.69ID:um2ffdhd0
(⌒▽⌒)アハハ!
0062名無しさん2023/03/06(月) 19:47:09.38ID:Lul5+zx40
部長がExcelのことをエグザイルって言う...
0063名無しさん2023/03/28(火) 07:41:39.02ID:2aLS9nGk0
イップク(*^-゚)y━~~
0064名無しさん2023/04/12(水) 05:53:47.66ID:X5GwHlQ+0
0o。_(´ε`) ふぅ~
0065名無しさん2023/04/28(金) 01:58:07.04ID:l/VN9Oxb0
クリスマスなのに俺にあったかいのは便座だけ
0066名無しさん2023/06/19(月) 15:02:59.91ID:BFoDFgYf0
('∞')y─┛~~
0067名無しさん2023/06/26(月) 10:44:47.80ID:ERaF8YeY0
(`▽´)y-゜゜゜ ウケケケ♪
0068名無しさん2023/07/10(月) 23:06:27.66ID:Hc0miwFt0
お〜〜〜い。おーい


なんで 三行足りないんだ。
0069名無しさん2023/07/11(火) 00:45:12.27ID:5dHhEibW0
どう考えても 世の中は 不条理に満ちている。

産れ出でた 我々は この地球の色んな魂の整理に 産み落とされた
0070名無しさん2023/07/11(火) 00:46:03.88ID:5dHhEibW0
どう考えても 世の中は 不条理に満ちている。

産れ出でた 我々は この地球の色んな魂の整理に 産み落とされた
0071名無しさん2023/07/12(水) 19:06:04.50ID:AApGezaU0
 すすを感じる世界  (1)

 鎌原村を直撃した鎌原火砕流は、天明大噴火で 発生した火砕流のうち最大の規模・
破壊力を持つものであった。その流下量は約1億m3であった。と推定されている。埋没
した鎌原村は、後には、イタリアのヴェスヴィオ山噴火遺跡になぞらえて、日本のポン
ペイとも呼ばれる。ほどに大きな土砂に埋まった街なのである。1979年から、行われた
この地域の考古学的発掘調査によって、先に言った様に鎌原観音堂の、埋没した石段の
最下部からは2体の女性の白骨遺体が発見された。災害発生時、この2人の女性のうち
1人が、もう1人を背負って避難しようとしていたが、間に合わずに土石流に巻き込ま
れて死亡していた。この死体の検視から、長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考
えられてきたが、「高温の熱泥流」ではなく「低温の乾燥粉体流」が災害の主要因で、
あった可能性が高いことが、調査によってわかった。鎌原村の地質調査の結果天明3年
の噴出物は、全体の5%程度しかないことが判明している。また、1979年から嬬恋村に
よって行われた発掘調査では、3軒の民家を確認できたが、出土品に焦げたり燃えたり
したものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であったことがわかっている。
このため、早川由紀夫らは「鎌原村を襲ったのは高温の火砕流ではなく低温の土砂の流
れであった。」と結論している。また、一部は、溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動
して流下した火砕成溶岩の一部である。と考えられている。今や鎌原村は日本の貴重な
災害遺跡の1つであるため、鎌原遺跡として将来的な国史跡への指定が目指されている
。記録では「軽井沢宿では、06月29日から震動のため家鳴りが激しく、宿の百姓たちの
一部は追々避難した。7月には、石・砂が4、5尺(約120〜150cm)の厚さに、積もった。
(ただ、この数字は誇張されて、実際の発掘厚さは4、50cmであった。と言うがフワフワ
な灰状であれば、圧縮されていないので、この深さがあったのかもしれない。
0072名無しさん2023/07/12(水) 19:09:46.56ID:AApGezaU0
字が じが  痔が  みえね〜〜〜。
0073名無しさん2023/07/29(土) 20:31:30.50ID:rJfR8u+Y0NIKU
 すすを感じる世界  (2)

 1783年の天明の浅間山噴火による泥流により、次々と集落を襲った。大半が埋まった
群馬県嬬恋村の鎌原地区で、石段を上り切ったのは93人、この人達だけが助かったのだ
。その中には、大名主の「鎌原八右衛門」と「鎌原弥兵衛」も含まれていた。彼らは、
自分たちが助かったことを、神に感謝し、その後、村人たちを救うために奮闘し、各地
の名主に助けを乞う伝令を走らせた。1979年に、観音堂付近などで発掘調査が行われて
、下に35段分の石段が見つかった。そこから女性2人の白骨化した遺体が折り重なって
見つかった。まだ皮膚の一部や目、髪、頭巾なども残っていた。1人の髪は白髪だった
。髪の結い方や骨の鑑定などの結果、若い女性が老婆を背負って、石段を上っていて、
あと一歩の所で土石流の飲まれたようだった。「おそらく、娘が母を助けようと懸命に
石段を上ったんだろう。」と担当者は推測する。遺体は手厚く葬られた。鎌原地区で、
当時から残る建物は、この観音堂だけだが、当時の様子は、237年たった今も 語り継が
れている。それは、当時の様子を「和讃」という御詠歌のような節の歌にして、毎月2
回、住民が集まって念仏とともに唱え、伝承し続けているからだ。全犠牲者477人の 名
前と当時の年齢が記された掛け軸も掲げられる。〈七日七夜のその間呑(の)まず食わ
ずに泣き明かす〉日々を送り、〈隣村有志の情にて〉おにぎりなどの炊き出しをして支
えられて生き延びた。大笹村の名主の長左衛門は、浅間山噴火による被災直後に人を出
し、駆け付け、炊き出しを行った。彼は、食糧調達に尽力した、近隣の有力百姓で出で
あった大笹村の名主黒岩長左衛門の、この敏速に救援に乗り出し、生存者を自宅に収容
して養ったり、被災地に小屋がけして生存者を収容し食糧・諸道具を与えるなどした。
0074名無しさん2023/08/10(木) 17:23:54.90ID:1aQszx+L0
あの、ゴミ出すぎちゃって…よかったらどうぞ
0075名無しさん2023/08/19(土) 20:43:15.93ID:RUCj6Ba50
(~。~;)y (-o- )/ ⌒-~ ぽい!
0077名無しさん2023/08/28(月) 22:42:13.00ID:NPeF/yKj0
アレ、アノ人、元気かな?
0078名無しさん2023/09/03(日) 03:33:13.94ID:dUlqs7hu0
チャンスを掴め!
0079名無しさん2023/09/04(月) 06:06:57.60ID:3TRLtbyf0
そやな、わからん
0080名無しさん2023/09/19(火) 18:53:25.65ID:E+mu6Mxi0
吉幾三って海外進出したら OK Let’s go になるの?
0081名無しさん2023/09/29(金) 19:49:56.28ID:mLZ3O7Uc0NIKU
(□△■)!!
0082名無しさん2023/09/30(土) 21:37:57.43ID:SIi2GAFq0
この味、ワシのじゃないと思うわ
0083名無しさん2023/10/01(日) 04:18:30.67ID:brVD8yyt0
うきうき、わくわくが止まらないね!
0084名無しさん2023/10/01(日) 14:47:35.82ID:XMqtA5n40
∑(`□´/)/ ナニィィイイイ!!
0086名無しさん2023/10/02(月) 16:00:50.67ID:l6MyO1oz0
工工エエエエェェェェェヽ(゚Д゚;)ノ゙ェェェェエエエエ工工
0087名無しさん2023/10/02(月) 19:01:34.22ID:jSiSgQzb0
ぉお(゚ロ゚屮)屮
0088名無しさん2023/10/02(月) 19:17:11.22ID:iC3E/9j/0
ワシ、アレ、すごいことになってるやんか!
0089名無しさん2023/10/02(月) 20:15:20.06ID:OfkcHwr0a
おっちゃん、今日もしゃっちょるなぁ
0091名無しさん2023/10/02(月) 20:47:48.61ID:0v0MPEwl0
あの映画、観たいけどタイミング合わないんだよね。
0092名無しさん2023/10/03(火) 12:28:50.26ID:WcJQ9uPs0
ほんまかいな、行こう
0093名無しさん2023/10/03(火) 20:48:49.25ID:qOUYjFBt0
Σ( ̄□ ̄lll)
0094名無しさん2023/10/05(木) 04:10:20.62ID:azqD4V5n0
何か楽しいこと、思いつかないかな
0095名無しさん2023/10/05(木) 05:30:59.19ID:j0rS3vAW0
ねぇ…試してみる?
0096名無しさん2023/10/05(木) 23:39:58.91ID:Sw3ubKOl0
ヽ((◎д◎ ))ゝヒョエ~
0097名無しさん2023/10/06(金) 12:20:38.29ID:b24ctJCB0
うわー、どんどん大きくなってるなぁ
0098名無しさん2023/10/07(土) 05:13:51.13ID:PbyYVQ/U0
あら、さすが庶民ですわね。このような所にわたくしが座れるとおもって?
0099名無しさん2023/10/07(土) 08:03:50.13ID:QeT1guYK0
私は、甘党なんだ。ケーキもチョコも甘いもの大好き。そう、君のキスも好きさ
0100名無しさん2023/10/07(土) 20:02:17.36ID:H/xPjKPS0
(◎_◎;) ドキッ!!
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