テスト

1名無しさん2021/10/08(金) 18:33:19.54ID:txwcujoD0
あいうえお

50名無しさん2022/06/17(金) 15:11:50.54ID:/8ygoT4r0
 ジャパン レボリューション。204、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 実頼死後のことであったが、決めたのは景勝の後を継いだ上杉定勝に、これが実行さ
れたのであった。景勝と正室菊姫との間に子ができず、側室の子であったが、側室も又
すぐに亡くなってしまった為、養育は兼続の妻であるお船の方が引き受けていた。その
為お船を母と慕う定勝が、その夫兼続の願いを形にした。のである。指名された秀兼の
嫡男は、光頼と名を改め、以後は上杉家に欠かせない重臣として幕末まで存続した。と
される。一方で秀兼には、もう1人息子がいた。長兼という次男がいたのである。光頼
の大国家相続に伴い、長兼が秀兼の後を継いだ。樋口家も、上士平侍の上田衆の一角と
して重きを成し、幕末まで存続している。自身の後継に恵まれなかった兼続であったが
、甥でもある秀兼の2人の息子に、その未来を託したのであろう。実頼が上述の「暴挙」
に出た時を除くと、樋口家の三兄弟、つまりは与六・与七・与八の仲は、決して悪くな
かったと言われる。ドラマでは、直江の家は自らの手で断絶させることは紹介されたが
、樋口家や大国家のその後は描かれてはいない。そうした意図もあったと思うが、今に
して思えば、「もう1人の弟」である樋口秀兼をもう少しクローズアップしてほしかった
とも思う。だから、正確に書いてあれば、この樋口惣右衛門の名は、少し引っ掛かって
しまう。「原因が、浪人・樋口惣右衛門による放火で、惣右衛門が発狂して、自宅の2
階の障子に火をつけ、さらに隣家の屋根に投げつけて発火させた。」とある中で。まず
は自宅が、借家でも間借りでもなく、自宅であって、浪人だった点と、その後此の地区
の差配が樋口家が行い、佐賀藩領地として初代藩主鍋島勝茂と繋がっていた点である。
知っての通り、初代藩主鍋島勝茂時代まで、佐賀藩は鍋島の物でなく、大きくは龍造寺
家のものとして、武雄や蓮池、諸富や牛津や三日月・小城氏川上氏といった旧武将が、
鍋島氏の家臣であったが、領主を許していない状態にあったのだ。つまり、単なる佐賀
連合体であって、かなりの反発の下で黒猫化け猫騒動あった時代で、藩内藩があった。

51名無しさん2022/06/17(金) 15:50:10.18ID:/8ygoT4r0
 ジャパン レボリューション。205、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 「寛文3年(1663年)03月08日の巳の刻(午前10時から正午)に、筑後町で火災が発生」
というのも気にかかる。少し前の1657年(明暦3年)には、江戸で明暦の大火が発生し
ていて、当時の江戸の大半が消失した事件が起こっている。世界三大大火の一つとされ
大いに大騒ぎであったはずだ。更にこの年に、有珠山の大噴火と普賢岳火山の有史噴火
活動が認められている。1663年(寛文3年)の噴火では,普賢岳の北東部の妙見岳崩壊
壁のすぐ内側から古焼溶岩(安山岩)が噴出し、北へ1km流下した。と言われている。
この溶岩は、雲仙火山の岩石の中では「SiO2含有量が少なくかんらん石斑晶」を含んだ
軽い白砂が特徴的と言う。その翌年に、九十九島池(火口)から出水し,水無川河口の
安徳で氾濫し30余名が死亡した。その後1792年(寛政4年)も噴火し、前年11月から、
半島西部の小浜付近で群発地震が始まっている。1792年1月に地獄跡火口から、噴煙を
あげ2月に、普賢岳北東側から新焼溶岩が噴出。4月には溶岩流の長さは2kmに達して
たいる。4月の終わりに島原付近で地震が頻発し、地割れが生じ、5月21日の激震により
島原市街地背後の眉山が崩壊。岩屑なだれが市街地を襲い島原湾に突入した。この眉山
岩屑なだれ堆積物により海岸線は長さ4km幅1kmにわたって埋め立てられ,大小無数の
小島(九十九島)ができた.これにより津波が対岸の肥後を襲い、島原の被害者と合わ
せて死者・行方不明者およそ15,000人というわが国最大の火山災害となった。大惨事は
、1792年に島原大変肥後迷惑といわれたが、1663年(寛文3年)の噴火でも被害は少な
くなかったはずだ。溶岩流の長さが1kmで1792年の2kmに及ばないものの恐らくは
死人もでている。寛文3年(1663年)は、徳川4代将軍家綱の時代で、寛永18年(1641)、
3代将軍家光の長男として江戸城に生まれた。正保2年(1645)に元服、慶安2年(1651)に
父・家光の死去に伴い11歳の幼さで4代将軍に就任した。家綱の将軍の後の家綱が養子
として迎えたのが、館林藩藩主徳川綱吉で御犬様で有名な強烈なキャラクターに埋もれ
るが、実はこの頃、由井正雪の乱が起こるなど政情不安が多く在って、家督騒動時代で
もあった。

52名無しさん2022/06/17(金) 16:05:34.26ID:/8ygoT4r0
 ジャパン レボリューション。206、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 徳川4代将軍家綱は、家光の異母弟で叔父に当たる会津藩主・保科正之の後ろ盾が、
大老・酒井忠勝ら有能な重臣と共に健在だった。そうした 重臣たちの補佐の下、幕政
を武断政治から文治政治へと大きく変革し、幕藩体制を確立させた。文治政治に大きく
舵を切って法の下の統治を完成させると言う名将軍だ。儒教要素を強く取り入れ武士道
を基盤とする政治で、小藩や、経営に危険な藩は、多くがお取り潰しにあい保科や酒井
は、由井正雪事件が、不平浪人発生の原因が大名の改易にあるとも認めていた。寛文3
年(1663)5月23日に、武家諸法度を改正した寛文令を発した。大名の人質を取る 証人制
の禁止、そして、殉死の禁止などが、寛文令には盛り込まれていた。1630年、松倉重政
は、ルソン島侵略を幕府に申し出ている。将軍家光は、マニラへの日本軍の派遣を確約
は控えたが、重政に調査を認め、軍備を整えることを許した。1630年、重政は長崎奉行
・竹中重義の協力を得、吉岡九郎右衛門と木村権之丞という二人の家来をマニラに送り
、スペインの守備を探っている。商人に変装し、貿易の発展についての話し合いを口実
として、ルソン島に渡航。それぞれ10人の足軽を従えていた。が、嵐の中の帰路、部下
は10名とも死亡した、その後重政は、圧政で、島原の乱を起こさせた。江戸時代初期に
起こった江戸幕府のキリシタン弾圧に対する反乱とされた。日本の歴史上最大規模の、
一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。天草の乱、天草一揆と呼ばれた
。寛永14年10月25日1637年12月11日勃発、1638年04月12日終結とされている。実はこの
時の大火が、筑後町で火災が発生した。と言うのも気にかかる。この重政は天草のキリ
スタン弾圧前には、筑後で非情な事を行っている。関ヶ原の戦いで、柳川を後にし立花
氏は蟄居するがその後に入った田中吉政時代実は立花氏の領地の半分も無かった。更に
久留米城島は有富氏が立ち退かない中にあったからだ。差配の役人として殆どの久留米
や英彦山或いは宮家の神領地に、強制取り立てに行った。

53名無しさん2022/06/17(金) 16:06:01.17ID:/8ygoT4r0
当然、領民は寺社・新領主・
差配人と3重の取り立てなっての取り立てである。この後田中氏の跡継ぎがなく立花氏
は帰還するが、更に立花氏まで米を送っていた。

54名無しさん2022/06/17(金) 16:06:27.67ID:/8ygoT4r0
 ジャパン レボリューション。207、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 天草四郎の本名は益田四郎とされる。父親は益田甚兵衛といい、父もまたキリシタン
で、父親は秀吉の船奉行をしていた キリシタン大名小西行長の家臣で、小西家が没落
した後には、農業に従事していたといわれている。四郎は9才の頃から学問を始め長崎
に遊学に行っていた。四郎が生まれた1621年の8年前に当たる1613年には、キリスト教
禁止令が出された。この時マルコス宣教師は「25年後に神の子が出現して人々を救う」
とが予言を残したと言う。そしてちょうど25年後の1637年、四郎は数々の奇跡を起こし
たとされることから、人々は「神の子だ」と噂をするようになり、これが、ちょうど、
島原の乱が勃発した年だった。天草四郎の起こした奇跡と最期島原の乱が起きたときの
四郎は若干16才。今でいう高校1年生である。四郎が人々から支持された理由は、難破
した黒船にあったと言われる。マルコス宣教師の預言と、四郎の奇跡が運良く合致した
のでなく、西洋船が大挙してやって来る。と信じられていたからだ。戦国時代から九州
には、たびたび白人のキリスト教宣教師が来航し、布教活動を永らくしていた。有馬氏
、大村氏などの各地の大名は、藩を寄進するほどキリスト教に入れ込み、住民の間にも
瞬く間に広がり、強制的に大友時代に信者が急増していった。しかし、白人による日本
侵略を警戒した豊臣・徳川各政権によって、徐々にキリスト教は規制され、江戸時代に
なってから、完全に禁止されることになって行く。しかし、九州地方の住民の間では、
キリスト教への信仰が根強く、地元の大名はキリシタンへの徹底的な取り調べ、処罰を
繰り返した。乱の中心地域である島原・天草地方の領主であった松倉勝家や寺沢堅高は
その中で奴隷貿易の相手として人身売買に於いて火薬の仲介人だったのである。住民に
対して、過酷な年貢や税の取り立てし、税目や税率を増やし、それらを 納められない
住民を売り、抵抗の地主に火あぶりや水責めなどの拷問にかけた。このような経緯から
、住民たちの領主への恨みが増幅していった。

55名無しさん2022/06/17(金) 16:07:24.17ID:/8ygoT4r0
ジャパン レボリューション。208、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)団は、1582年(天正10年
)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としての、
日本で最も早い、ローマへ派遣された使節団で、4名の少年を中心とした使節団であっ
た。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案で、織田信長時代の使節だ。
豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなったが、1590年(天正18年)に、
帰国した。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼ら
の持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって、日本語書物の活版印刷が初めて行われて
キリシタン版と呼ばれた。この有馬氏、大村氏のキリスタン使節団によって、九州と、
キリスト教との近さは判るであろう。『天正遣欧使節記』または『遣欧使節対話録』と
して4名の少年達の生きた声として引用されている『デ・サンデ天正遣欧使節記』があ
るが、これは日本に帰国前の少年使節と、日本にいた従兄弟の対話録として著述されて
おり、両者の対話が不可能なことからヴァリニャーノ司教のフィクションとされている
。ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。第一はローマ
教皇とスペイン・ポルトガル両王に 日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
第二は、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後に、その栄光
、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたい。ということであった。
使節の少年たちは、有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨ(小中学校)で学ぶ生徒
の中から選ばれた。使節4名の正確な生年月日は不明だが、派遣当時の年齢は13〜14歳
で中浦ジュリアンが最年長、原マルティノが最年少と言われる。

56名無しさん2022/06/17(金) 16:07:43.85ID:/8ygoT4r0
使節は『伊東マンショ
(主席正使)』大友義鎮(宗麟)の名代で宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、
司祭に叙階される。1612年長崎で死去した。『千々石ミゲル(正使)』大村純忠の名代
。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟で後に棄教。『中浦ジュリアン(副使)』 後年 司祭に
叙階。1633年、長崎で穴吊るしの刑によって殉教した。2007年に福者に列せられる。『
原マルチノ(副使)』後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去した。

57名無しさん2022/06/17(金) 16:08:12.45ID:/8ygoT4r0
 ジャパン レボリューション。209、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 長崎奉行では、この火事を教訓として 道路の幅を本通り4間幅、裏通り3間幅、街
割り溝の幅を1尺5寸(=50cm程度)以上と決め、計画的に整備していく。この時
に造られた道幅は、以後も長崎の都市計画の基本となっている。1間は約1.8mなので
約2m道路、本通り4間というと7.2メートルで、8m道路となる。浜の町アーケード
の道幅を図ると、浜屋の通りは約5メートルなので裏通りの規格だとわかる。これらは
明治時代の、近代街割りの基礎資料にもなっている。しかしその後も火事は止まらない
1698年6月1日「末次火事」というのが起こっている。元禄11年(1698年)04月23日の
未明に、後興善町の乙名(おとな)である、末次七郎兵衛宅から出火。強風により大火と
なり、午後4時に鎮火するまで約12時間燃え続けた。この火事は、付近の町22町に
延焼し、家屋2044軒、土蔵33棟を焼失。被災者9832人死者男7人女1人。この他に犬
121匹、猫297匹の焼死も記録に残されている。犬猫の焼死も多数あるのが悲しい程だが
約一万人の被災者でも死者が8人であった。大火事なのに異様に人間の死者数が少ない
のが救いである。火災の後、奉行所は被災者のために緊急米が2000俵を放出している。
この火事により、長崎に入港していた唐船20隻分の荷物を収納していた土蔵18棟も全焼
した。そのため、元禄15年(1702年)に浜町の海岸沿いを埋め立てて人工島が造られ、
そこに倉庫が建設された。この倉庫は新地蔵所と呼ばれ、唐船専用の貨物倉庫となった
。この地は現在は新地町と呼ばれ、長崎の中華街となっている。まさにクラッシュ&ビ
ルドだが、この出火元の「後興善町の乙名(おとな)である、末次七郎兵衛宅から出火。
」というのも異様である。

58名無しさん2022/06/17(金) 16:08:38.92ID:/8ygoT4r0
 ジャパン レボリューション。210、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 伊藤 小左衛門(いとう こざえもん)は、江戸時代初期の福岡藩の商人である。博多
の地で2代にわたって活躍した豪商で、主に2代目小左衛門吉直(寛文7年(1667年)
初代の吉次(よしつぐ)は、福岡初代藩主黒田長政が慶長5年(1600年)に当地に転封
してきた際に、当時住んでいた木屋瀬から博多へ出て貿易商人となった人だ。吉次は、
浜口町に店を構え、同時に長崎にも出店し手広く商いをして巨万の富を築いた。という
幕府の許可を得て、伊藤小判を発行し、福岡藩の御用達まで務めた。寛永19年(1642年
)には長崎の清水寺に梵鐘寄進した。承応元年(1652年06月24日に当時の福岡藩主の、
黒田忠之が家臣を引き連れて、長崎の出島を訪問した際、家臣たちの末席に控えていた
伊藤小左衛門がオランダ商館長の注意をひいた。小左衛門が毎年1万匁の銀を使う身分
で、7000万匁以上の資本金を持つ大富豪であることを知っていたのである。商館長は、
彼が末席に居ることに驚いた。と、商館長日記に記している。ただし、この小左衛門が
初代の吉次か2代目の吉直かは不明だ。『長崎オランダ商館日記』同年9月5日条では、
トンキン向けの輸出銅銭を伊藤小左衛門と1000個41匁の契約で、10月15日までに12万匁
を受け取ることにしたという記録も残っている。近松門左衛門の、不朽の名作の「博多
小女郎浪枕」は、博多の豪商 伊藤小左衛門の悲劇に着想のヒントを得たといわれる。
「博多に本店、長崎、五島、対馬などに支店を置いて、持ち船20隻、資金8万貫を蓄え
、当時日本一と言われた大阪『鴻池』に次いでの2番目の海の財閥であった。また黒田
藩の御用商人としても、藩財政に貢献していて、伊藤の刻印がある金片は、伊藤小判と
して九州一円に広く通用した」(中村均著「日本のシャイロックたち」)と書いてある
。ここでも伊藤小左衛門と言う屋号での苗字である。吉直の時代であったろう銅銭輸入
は最高になっていたのだ。

59名無しさん2022/06/19(日) 10:58:48.30ID:L2ND19VH0
 ジャパン レボリューション。211、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 実は、不思議な事に、先の銀山発見の博多の豪商、神屋寿禎(かみやじゅてい)の、
中国・朝鮮への主要な輸出品であった銅を入手する為に、石見地方の東隣に当たる出雲
地方に向けて、日本海の沿岸を航行していた際に、南の山に霊光を発見して銀山の存在
を知ったとされている話と、この伊藤 小左衛門(いとう こざえもん)の船が、諸富船
つまり、末次船となっているのだ。末次船は荒木船とも呼ばれ、長崎の朱印船貿易商の
荒木宗太郎が専ら使った外国貿易船で柳川風浪宮でしか作られてなかった船だったのだ
。元和五年(一六一九)安南渡海の朱印状を下付された。同八年に描かれた図によれば
、中国型ジャンクと西洋型帆船ガレウタとを折衷した構造で、蛇腹の艤装の船で同系統
のシャム船よりも、強く洋式化しアスファルトを併用した継ぎがあった。当時この種の
船をミスツイス造りとか日本前と称した大型船で。5〜700前後と推定されている。
寛文7年(1667年)、長崎浜町居住の江口伊右衛門の下人で、筑後柳川領にあった正行
村の平左衛門という者が、柳川藩の当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が
発覚した。と言われる。その訴えでは、伊右衛門が対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、
武具を朝鮮に密売した。というものであった。伊右衛門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、
牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者達が判明する。訴えをうけた藩の
留守居役により、柳川沖端町の、喜左衛門ほか9名が03月24日、26日に捕らえられてい
る。喜左衛門は、対馬の小茂田勘左衛門らと申しあわせて船頭として朝鮮に渡り、9名
の者を、水主(船長)として雇ったことが判明。兄の油屋彦右衛門(新大工町家持)の
名代として朝鮮に渡った築町の借家六右衛門は04月15日に捕らえられた。この荒木船と
言う名も、実は久留米近くに「荒木」の地名が残る。ここには鬱蒼とした森だった。が
秀吉が来て朝鮮征伐に、木を切って野原にした。と言う伝説が残っている。この時の、
この木で出来た船が荒木船という話である。

60名無しさん2022/06/19(日) 10:59:14.36ID:L2ND19VH0
江戸時代初め,大坂の豪商末吉孫左衛門がルソン渡航などの朱印状を受けて海外貿易に
従事させた代表的な御朱印船の形で宝船の古来の形に物見用や積み込み用に、二階建て
以上のデッキを後ろに付いた形である。

61名無しさん2022/06/19(日) 18:59:45.38ID:L2ND19VH0
 ジャパン レボリューション。212、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 末吉船は、江戸時代初め,大坂の豪商末吉孫左衛門がルソン渡航などの朱印状を受け
て海外貿易に従事させた代表的な御朱印船の形で宝船の古来の形に物見用や積み込み用
に、二階建て以上のデッキを後ろに付いた形である。寛文7年(1667年)長崎浜町居住
の江口伊右衛門の下人で、筑後柳川領にあった正行村の平左衛門という者が、柳川藩の
当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が発覚した。その訴えは、伊右衛門が
対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、武具を朝鮮に密売したというものであった。伊右衛
門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者
達が判明した。訴えをうけた藩留守居役により、柳川沖端町の喜左衛門ほか9名が3月24
日、26日に捕らえられた。喜左衛門は、対馬の小茂田勘左衛門らと申しあわせて船頭と
して朝鮮に渡り、9名の者を水主として雇ったことが判明。兄の油屋彦右衛門(新大工
町家持)の名代として 朝鮮に渡った築町の借家六右衛門は04月15日に捕らえられた。
密貿易組織の「張本(ちょうほん)」とみなされた伊藤小左衛門は、06月25日に長崎の
水之浦で福岡藩士に捕らえられ、五島町へ預けられた。25日には長崎の浜町 乙名浅見
七左衛門が捕らえられた。主犯格の1人で油屋彦右衛門、築町の塩屋太兵衛、炉粕町の
中尾弥次兵衛、そして対馬の小茂田勘左衛門、亀岡平右衛門、扇角右衛門、さらに福岡
領の高木惣十郎、篠崎伝右衛門、前野孫右衛門、唐津藩の今村半左衛門、島原領日見村
の加兵衛、小浜村の利兵衛、熊本藩八代の九郎左衛門、大坂の仁兵衛・長兵衛・庄左衛門
のほか、宮崎や唐津、久留米などから「同類」が摘発され、94人が取り調べを受けた

62名無しさん2022/06/19(日) 19:05:28.36ID:L2ND19VH0
 ジャパン レボリューション。212、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 末吉船は、江戸時代初め,大坂の豪商末吉孫左衛門がルソン渡航などの朱印状を受け
て海外貿易に従事させた代表的な御朱印船の形で宝船の古来の形に物見用や積み込み用
に、二階建て以上のデッキを後ろに付いた形である。寛文7年(1667年)長崎浜町居住
の江口伊右衛門の下人で、筑後柳川領にあった正行村の平左衛門という者が、柳川藩の
当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が発覚した。その訴えは、伊右衛門が
対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、武具を朝鮮に密売したというものであった。伊右衛
門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者
達が判明した。訴えをうけた藩留守居役により、柳川沖端町の喜左衛門ほか9名が3月24
日、26日に捕らえられた。喜左衛門は、対馬の小茂田勘左衛門らと申しあわせて船頭と
して朝鮮に渡り、9名の者を水主として雇ったことが判明。兄の油屋彦右衛門(新大工
町家持)の名代として 朝鮮に渡った築町の借家六右衛門は04月15日に捕らえられた。
密貿易組織の「張本(ちょうほん)」とみなされた伊藤小左衛門は、06月25日に長崎の
水之浦で福岡藩士に捕らえられ、五島町へ預けられた。25日には長崎の浜町 乙名浅見
七左衛門が捕らえられた。主犯格の1人で油屋彦右衛門、築町の塩屋太兵衛、炉粕町の
中尾弥次兵衛、そして対馬の小茂田勘左衛門、亀岡平右衛門、扇角右衛門、さらに福岡
領の高木惣十郎、篠崎伝右衛門、前野孫右衛門、唐津藩の今村半左衛門、島原領日見村
の加兵衛、小浜村の利兵衛、熊本藩八代の九郎左衛門、大坂の仁兵衛・長兵衛・庄左衛門
のほか、宮崎や唐津、久留米などから「同類」が摘発され、94人が取り調べを受けた。
つまり、九州勢の貿易商の追い落としが起ったのである。何故か。家康は、このイスパ
ニア貿易即ちポルトガル式の奴隷船貿易を秀吉同様に訝しく思ってた。しかしここに、
切るのに一つの問題があった。綿の輸入である。安価な綿や綿糸であったが、日本では
取れなかった。インド若しくは中国しか無かったのだ。綿や綿糸はそれだけ貴重だった
。が、それでも衣食住は人の基本で必需品だった。

63名無しさん2022/06/23(木) 08:51:11.91ID:8Lx88On30
 ジャパン レボリューション。213、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 当初日本は、イスパニア船とポルトガル船と交易していた。毛利元就時代に毛利側に
付いたのが、イスパニア船で今のスペインである。対してポルトガルは大友宗麟側に、
商売していた。この戦国時代に異国船貿易が滞っていたからだ。博多の豪商、神屋寿禎
(かみやじゅてい)は、中国・朝鮮への主要な輸出品であった銅を入手する為に、石見
地方の東隣に当たる出雲地方に向けて、日本海の沿岸を航行していた際に、南の山に、
霊光を発見して銀山の存在を知ったとされている。で、寿禎の頃は典型的な中国の船を
模した宝船の形であったろうと思われる。それに中東のダウ船の帆も付けて、風に早く
対応する事をした。大きな帆はそのままでは台風で折れるからだ。従って、台風の多い
東シナ海に西洋船は不向きであった。速度を遅くしても直ぐに折りたたむ事が出来る、
蛇腹帆との併用使用である。これが日本式のジャンク船となった。ダウ船は「縫合船」
と呼ばれるグループに分類される。縫合船は剛体ではない柔軟な、また修理がしやすい
構造でもある。つまり、鎧構造での作り込みだダウが、こうした構造を持つ理由には、
いくつか考えられているが、その一つがダウ船が製造されたアラビア半島では、鉄釘の
原料となる鉄の資源が乏しかったという説である。アスファルトで板を積み上げた船が
遥かに安価にできる。これが中国ではジャンク船となる。ダウ船は大きさスピード船足
船底と色んな種類があるが、いずれもカーテンロール式の帆で2本若しくは3本の帆だ
だが、中国で発展した形は蛇の目傘方式で片方は一点固定である。どこから変わったの
か判らないが東南アジアの南支那海当たりの雨事情で、帆より屋根が必要とされた様だ
つまり、今のヨット型のセールなのである。この小さな倉庫型のジャンク船に限っては
今でもベトナムやマレーシアにありそうだ。彼らにとっては船と言うより家であり海も
河も商売上の場所に過ぎなかったのだろう。恐らく簡易な帆でジャンク=贋物という事
で付いた名なのだろう。大きくとも本式でなく、ダウ船の物真似船だったのだろう。

64名無しさん2022/06/23(木) 08:51:45.11ID:8Lx88On30
 ジャパン レボリューション。215、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 長崎出島のオランダ人で、再開商館にマクシミリヤン・ルメールは日記を多く残した
。父のイサック・ル・メールは、1602年に東インド会社が設立された時の設立者の一人
であった。その子マクシミリアン・ル・メールは1606年02月28日アムステルダムに産ま
れバタヴィアで死んだとされる。最後の平戸オランダ東インド会社の商館長で(1641年
2月〜5月)であり、初代の 長崎出島オランダ商館長(同年5月〜10月)となっている。
その後も1643年〜1644年まで、台湾の行政長官を務めていた。マクシミリアン・ル・メ
ールが生まれた時に、成年に達していた12人とも13人とも言われる兄弟がいたという。
。探検家であり、ホーン岬を回るジャワへの新航路を発見したヤコブ・ル・メールは、
その中の兄に当たる。ルメールは、オランダ北部のエフモン・アーン・デン・フーフで
育った。東インド会社には1630年ころ入社して、インドのマラバール、モザンビークで
勤務した後、上級商務員として1640年7月4日に平戸に着任している。同年12月14日に、
商館の評議会から、商館長フランソワ・カロンの後任としてル・メールが指名されて、
翌1641年2月10日にカロンから商館長の権限を引き継いだ。カロン時代に商館を 出島に
移すことを承諾していたが、ル・メールは、06月10日に出島に入り、ポルトガル人追放
があった後の商館長で、2年間出島は、空家となっていた。建物状況など満足すべき物
ではなく。また、ポルトガル人は、出島を建設した25人の商人たちに年間銀80貫目を、
支払って借りていたが、ル・メールは4ヶ月の交渉の結果、銀55貫目にまけさせている
。商館の出島移設に先立つ1641年05月11日、ル・メールは江戸に参府し、老中酒井忠清
らに拝謁したが、この際に「ポルトガル人の情報を提供しなければ日本への渡航を禁止
する。」と告げられている。この命令に従って毎年作製されたのがオランダ風説書であ
った。その後、台湾行政長官となり、干拓地に彼の名前がつけられ、帰国後、1647年に
ハーグで再婚した。数年間アムステルダムに住んだ後、1650年に妻とともにバタヴィア
に移った。その数年後に死亡したが、正確な死亡日と死亡場所はわかっていない。

65名無しさん2022/06/23(木) 08:53:11.41ID:8Lx88On30
 ジャパン レボリューション。216、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 末吉孫左衛の話は他にもある。日田の金山は有名だが、実はこの日田より有名だった
のが八女の金山だった。と言われる。八女の金山層と日田の金山層は、実は造山活動を
みれば同じ層である。秀吉時代にはまだ日田の鯛生金山などは見つかっていなかった。
筑後に水田天満宮があるが、その付近に水田小学校がある。かつての下妻城跡である。
かつてはそこから瀬高街に向かった沿線は大都市があった。とされる。矢部川の下で、
下川氏で京都譜代の神領地であった。しかし、先の大内氏が太宰府長官になった時に、
徹底して打ち壊され、ここの住民は散逸する。妻夫木氏や十時氏と言うのは、この時に
熊本南関地方に逃げて、大津山氏の近くに住んだ人達である。九州戦国時代に、蒲池氏
は大友氏の忠告を破って龍造寺氏を匿った。これは蒲池氏の本家、鷹尾の神職で家老で
あった田尻氏の意向であった。ここで座主問題がある。遠く平家時代に、この南関山鹿
山川は、古くからの集落が存在し、真弓神社などは、その典型的な神社だったという。
南北朝時代には大塔の宮家は、八女山川を逃げ延びて筑後に居を構えた。この時三種の
神器以上の、割り印を持ち勘合貿易の焼き印の鉄器を持っていたのである。そこに立花
氏の久留米居住で、高良山山伏との接点があった。蒲池氏も実は鎌倉頃に三池から下山
してきた田尻家の分家とされ、鷹尾の公船貿易や筏貿易には大きく遅れを取った経済で
決して名のある武将ではなかった。しかし、戦国末期の信長時代には、大きく柳川城を
築く程になった。理由は、英彦山座主が玉垂れ宮にいて、そこの信任を得て水沼貿易の
権利を持ったからだ。かつての蒙古軍の到来で、関東武者は九州下向によって住み着き
結局大友氏は諜謀(ちょうぼう)によって菊池兄弟を殺して行き、家老の阿蘇氏を縁戚
に迎えて寝返らせ滅ぼし、謀略を果たした。これにより山岳信仰で固まっていた九州勢
も山伏や修験道の宿坊も意見は分かれ、結局各々の方針で動き始めて、蒲池氏の護りで
貿易利権を与えた形になり、田尻氏は、大友大内の策略で死んだ龍造寺家子孫を預かっ
たのである。

66名無しさん2022/06/23(木) 08:54:13.91ID:8Lx88On30
 ジャパン レボリューション。217、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 この蒙古軍の到来での大きなショックは、この関東武者の居住の他に、攻撃に使われ
た「鉄這う」と言われた手榴弾のショックも大きかった。更に海外貿易や海外情報の、
大切さも意識を大きく変えた。ここで鋳金工業や火薬そして知見の文書や交易に武将は
力を入れた。旧蒲池にあった柳川城は、砦としていた瀬高の開門跡、つまり清水門前町
の宿城の地に矢壁・矢止・作られ今の柳川市の中心地となった。元々何回も女真族やら
海賊毛利や対抗六角氏などで柳川は焼き払われて住んでいた土地だった。復興がおぼつ
かずに居た所に、大友氏の洋風化二階崩れが起こっていたのだ。つくられた柳川城は、
天下の名城と加藤清正すら驚いたと言う。しかしその名城も蒲池氏が育てて兵まで付け
送ってやった龍造寺氏に、妻の忠告虚しく謀殺させらて、落城して しまうのである。
こうして龍造寺氏の天下となるが、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)であえな
く戦死した。日本の戦国時代の 天正12年3月24日(1584年5月4日)に肥前島原半島の、
(長崎県)で勃発した戦いで。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久
の合戦であった。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。有馬晴信は八代に
いた島津軍に、援軍を要請した。当時、島津家は肥後の平定に着手し、龍造寺軍の主力
が島原に到達しても、有馬に対して援軍を送り出せない状況だった。島津軍の主力は、
大友主力と対峙しており、衰えたとはいえ大友家が南下しかねず、島津義久は、捨てて
於けずも大軍を島原に送る事はできずにいた状態だった。島津・有馬連合軍は、泥田・
沼地によって畷の一本道以外には展開できない龍造寺軍を誘い込んだうえで銃撃により
進軍阻止・混乱させたのである。総大将を失って総崩れとなった龍造寺勢は、本拠地の
佐賀城に向けて撤退したが浜側を攻めていた江上家種は配下の執行種兼らを、退却中に
失い戦場を脱出した。鍋島信生は本隊が総崩れとなって柳河を目指して落ちて行った。
こうして 鍋島氏配下となった柳川城に、島津氏が襲うが、そこへ秀吉軍がくるのだ。

67名無しさん2022/06/23(木) 09:18:01.67ID:8Lx88On30
 ジャパン レボリューション。218、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 この時多くの商館のある長崎は、天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねん
しせつ)団で見る様に 敬虔なカトリック信者の街であった。つまり、スペイン船やポ
ルトガル船での布教があり大きなキリスト教国になっていた。仏教徒の龍造寺の猛攻の
前に大友の支援するポルトガル軍の九州勢と毛利を従える大内氏のスペイン宣教師団の
一行は、とりあえずの共同戦線を張っていた。瀬戸内海海戦では、どっちが勝っても良
かった。では島津氏や秀吉はどうだったか。1540年代に、島津氏の当主は15代目島津で
貴久になった。この代に、薩摩の支配を確立し、大隅国も制圧することに成功した。此
れは宣教師には痛かった。1543年に大隅国の種子島に鉄砲が伝えられたが、既に日本は
中国から仕入れて仕組みも鍛冶屋も作っていた。1549年に、フランシスコザビエルが、
鹿児島でキリスト教布教を始めたが。島津貴久はこれを敵対した、16代目島津義久が後
を継ぐと、室町期に奪われた日向国と肥後国を取り戻す。これらはキリスタン攻撃だっ
た。追い払われたキリスタン布教は、阿久根長嶋から天草そして平戸へと、移っていっ
た。鉄砲伝来で、島津氏は九州代表の戦国大名としての名乗りを上げ、大きなエポック
となる。当時、全国の戦国時代の戦い方が、今川義元や織田信長に代表されるように、
大幅に変えたことで知られている。その先駆けての火薬の使用が島津だったのだ。1578
年に、日向国(現在の宮崎県)で起こった耳川の戦いは、大友は渾身を振るった。キリ
シタン大名で知られる大友義鎮(宗麟)がキリスト教の聖地を作る。と、起こした戦い
である。ところが追従の蒲池氏他、家臣団はこれを馬鹿にしていた。仏教徒だった為だ
。耳川の戦いの舞台は、かつての キリスト教信者が流れ着いた地で、地名が今でも残
っている。と言われる。この戦いで、乗り気のない大友軍に島津氏は圧勝した。大友氏
は重臣や多くの兵力を失った。蒲池氏の父も戦死し、この敗戦の責任論が蒲池氏に起っ
た。この負けで多くの家臣は家が潰れて 商人に変わった。壱岐の柳川氏は中心にいた

68名無しさん2022/06/23(木) 09:20:54.13ID:8Lx88On30
 ジャパン レボリューション。219、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 1584年の肥後国(現在の熊本県)で起こった沖田畷の戦いについて取り上げると、こ
の戦いで島津氏は わずか3000の兵で25000もの兵を率いた龍造寺氏の大軍を打ち破った
ことで知られている。この後、龍造寺氏は下剋上に倒れ、肥前国の大名は鍋島氏になっ
た。戦国大名の島津氏は、朝鮮出兵でも兵を送った。朝鮮出兵では、島津義弘が慶長の
役でたった7000の兵で、20万もの明と朝鮮の連合軍を打ち破った。この島津氏の戦いに
ついては朝鮮と明の史料にも残っている。ところが、この時毛利の止めも聞かず加藤氏
を救うべく動いて碧蹄館の戦いに挑んだ蛮勇がいる。これが立花氏だった。漢城(現ソ
ウル)めざして南下する李如松率いる約5,000の明軍を、小早川隆景ら 率いる約20,000
の日本勢が迎撃し打ち破った戦いになったが。日本軍は迎撃先鋒の立花宗茂・高橋直次
(後の立花直次)兄弟はいたものの、そして宗茂と直次の本隊は2000、先鋒の連久らと
中陣で700の 小野鎮幸、米多比鎮久を陣替する際に、直次と戸次鎮林を陣頭に立てて、
左側面から敵後詰・高彦伯の朝鮮軍数千騎である。奇襲を仕掛けて撃退に成功しても、
次々に現れる中国明軍の出現に秀吉の一時退却がでていて黒田長政5000人石田三成隊の
増田長盛・大谷吉継5000人、加藤光泰・前野長康3000人、四陣宇喜多秀家8000人、合計
21,000人、は既に退却帰国に入っていた。更に先陣の立花宗茂・高橋直次3000人に伝わ
る頃には、二陣 小早川隆景8000人の半数には撤退命令が伝わり、三陣 小早川秀包・
毛利元康・筑紫広門-5000人、四陣 吉川広家-4000人 合計20,000の半分は動かせない
状態だ。宗茂は 800騎の備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈追撃、戦果を拡大し一日が終わ
る頃、やっと日本軍は一万人を集合させている。がここに7千の敵軍と遭遇するのだ。
更に後ろに20万の兵が援護に押し寄せて来る中で、この800騎の兵は猛然と加藤清正を
助けに行った朝鮮王朝実録の別の記事では、日本軍と明軍の死傷者が双方500〜600人と
ある。この勇猛さに怖気た兵も、後に続き結局は挟み撃ちの明軍は敗けたのであった。

69名無しさん2022/06/24(金) 01:36:16.77ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。220、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 天下統一後、明国征服を企図する豊臣秀吉は、李氏朝鮮に対し、服属と明遠征の案内
役を求めた。しかし朝鮮がこれを拒んだことから、文禄元年(1592)4月、一番隊から
九番隊まで、15万余りの軍勢で釜山に攻め込んだ。いわゆる朝鮮出兵の文禄の役である
。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年(1592年)に始まって
翌文禄2年(1593年)に休戦した。兵站を約束した船奉行小西行長は、壱岐対馬の宗氏
を通じて、荷の重さからか朝鮮国王宣祖の案内役同意の書状をもって処理して、休戦と
なった。しかし、終わった筈の文禄の役は、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によっ
て再開される。慶長3年(1598年)の太閤 豊臣秀吉の死をもって、日本軍の撤退を決
め終結したが、この再度の戦いを慶長の役と呼んだ。初戦に華々しい勝利で進んで行っ
た、加藤清正の九州勢の南周りだ。北回りの東北勢は、秀吉配下の関東軍の中央軍と、
連絡を密に遅れて進んで行く。日本軍は、勝利を重ねつつ北上し、5月3日は首都漢城が
落ち、朝鮮国王宣祖は逃亡した。6月15日には、加藤清正らが平壌を制圧したがしかし
、朝鮮国王の要請で明の援軍が派遣され既に上陸寸前だったのだ、7月16日平壌の奪還
を図る祖承訓率いる5000が急襲し、同時に小西行長には宗氏の使いがでて、亀甲船二隻
で兵站線は潰れていた。元々朝鮮征伐を一笑していた中央と、苦戦していた北部隊は、
早々にこの休戦協定の情報に、退却用意を、行っていた。情報が遅かった加藤隊には、
実は根城すらソウル築城を後にして、その先いたのである。平壌を守る小西らは、これ
を大いに破り、撃退したが、主敵である明の国土にまだ一歩も足を踏み入れぬうちに、
明軍が早くも駆けつけてきたことは、日本軍に少なからぬ打撃だった。立花宗茂は繰り
出される亀甲船に翻弄しながら一隻は、深夜に小舟で、火を投じて撃破、更に李舜臣の
本陣を叩き、亀甲船の隠れ停泊地の近くで崖に誘い出し巨石で二隻目を大破させていた
。この快挙に苦虫をかみしめたのが、宗氏にアドバイスをしていた黒田氏だった。そも
そも亀甲船は、信長が密かに作らせていた物で、小西の目を盗んでせしめたものだった

70名無しさん2022/06/24(金) 01:36:49.24ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。221、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 日本軍諸将は評定を開き、年内の進撃はとりあえず平壌までとし、軍監の黒田官兵衛
は、「撤退せず、進軍し、協定を図るべし。」と唱え、小西は、「平壌から後退して、
明軍に備えて漢城の北方に堅固な砦を築くべき」との勧めに応じなかった。しかしして
、秀吉の意向によって、明との講和を進めたい黒田は、小西に宗氏を副使として派遣し
た。平壌に戻り、明と50日間の休戦協定を締結したものの。ところがこれは、明が態勢
を整えるための方便であった。翌文禄2年1月6日には、講和交渉をよそに、李如松率
いる4万余りの精兵が朝鮮軍とともに平壌を襲い、小西らは大敗。辛うじて黒田長政の
拠る龍泉山城に逃げ込んだのである。「漢城の守りを固めて籠城するか、釜山まで後退
して内地からの援軍を待つか、それとも打って出て、明軍を迎え撃つか。」宇喜多秀家
、小早川隆景、立花宗茂、黒田長政、加藤光泰、さらに石田三成、大谷吉継、増田長盛
らの奉行衆も加わった軍評定で、諸将の意見は割れました。文禄2年(1593)1月下旬
(一説に25日)、漢城(現在のソウル)においての話だ。突然の明軍の反攻に、平壌と
漢城間の諸城に詰めていた日本軍諸将はすべて漢城に集結。一方、勢いに乗る李如松は
平壌から開城へと進軍し、自信満々で漢城攻略を窺っていた。石田・大谷・増田ら奉行
衆が籠城策を勧める中でも、城外での迎撃を決然と主張したのが立花宗茂、小早川隆景
らであった。「(宗茂は)合戦は吾願ふところなり、我まず先駆せむといふ、小早川左
衛門佐隆景も、尤も同心して、先陣せむといふ、爰に於て諸将異義に及ばず」(『加藤
光泰貞泰軍功記』)。「今敵の多数を聞き一戦を交へずして退かば我国の恥辱を奈何せ
んや。夫れ城に嬰りて守らば大兵合圍援路四絶焉んぞ久を支えん。兵を城外に出し雌雄
を決せんに如かずと。隆景大に之を賛し群議遂に決す。又隆景の推挙により宗茂をして
先鋒たらしむ」(『大戦記』〈柳川藩叢書第一集所収〉)。同書にある「我国の恥辱を
奈何せんや」という部分こそ、同胞加藤氏を置いて引いて守るなどあり得ない。と言う
のだ。

71名無しさん2022/06/24(金) 01:37:39.43ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。222、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 平壌陥落の報せに宗茂は1月8日(10日とも)、弟の高橋統増とともに3千の兵で、
平壌へ向かい、途中、敗残の小西勢とすれ違う。小西は「敵の大軍がすぐそこまで迫っ
ている」と宗茂に告げて去り、それを聞いた統増が「小西勢を引き留めて、ともに敵に
あたるべきでは」と問うと、宗茂は笑って「敗戦の輩は役に立たぬ」と応じたという。
関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成についた島津氏は、本来九州平定に来た秀吉に憎しみ
がある筈だった。だが、結局、碧蹄館の戦いに駆けつける立花宗茂に惚れこみ、九州の
武将たちの結束がここで固く出来上がっていた小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した
首都・漢城を放棄し朝鮮国王宣祖は、明軍を待って反攻にでる。朝鮮で「天兵」と呼ば
れた明軍は、文禄の役においては、祖承訓率いる五千、李如松率いる秋水鏡を含む4千
三百が参戦した。さらには、碧蹄館の戦いに劉氏率いる5千人が新たに到着し増援した
。ルイス・フロイスは、平安城を囲んだ明軍の兵力を伝聞として「少なくとも20万」と
記載している。明部隊は、広大な帝国内における多様な戦闘を経験しているため、様々
な武器を使用した。飛び道具として弓、三眼銃、火縄銃、南蛮式火縄銃、小火砲、長柄
武器として槍、三又、鉄棒、射手の護身用に片手刀、その他に大砲、煙幕弾、手投げ弾
などである。しかし、明の火縄銃や南蛮式火縄銃は、日本の物と比べ改良が進んでおら
ず余り役に立たなかった。ルイス・フロイスの記録によれば、明軍の防具は鉄製のため
に守備力があり、槍も日本刀も通じにくかったという。碧蹄館の戦いに関し、朝鮮王朝
実録は「天兵(中国兵)短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊(日本軍)奮長刀,
左右突鬪, 鋒鋭無敵。」という記述があり、李如松軍のために兵糧等の手配をした朝鮮
の宰相である柳成龍が著述した懲録には「李如松提督が率いていたのは皆北方の騎兵
で火器を持たず、只切れ味の悪い短剣を持っていただけだった。一方賊(日本軍)は歩兵
で、その刀剣はみな3〜4尺の切れ味無比のものだった。衝突激闘してもその長刀を振
り回して斬りつけられるので、人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはいなかった。
(以下略)」とある。

72名無しさん2022/06/24(金) 01:42:08.25ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。223、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 そもそも、この秀吉の外征計画について、安国寺恵瓊のような楽観的な賛同者がいた
反面、恵瓊から11ヶ所の宿泊施設の普請命令を伝達された毛利輝元などは、一貫した
悲観論者であったのである。名護屋陣中に当てた組屋文書も、毛利輝元、長宗我部元親
、島津義弘、大友吉統らは国替えして 朝鮮で10倍20倍の知行増を約束されたが、迷惑
がった。と書かれていて、輝元は10倍もの加増があれば現在の領地の統治も、覚束なく
なると辞退した。とする内容があった。異国の所領に魅力を感じた大名はむしろ少数で
輝元は身内の宍戸覚隆に宛てた5月26日付の、星州からの手紙は さらに具体的に書いて
いて、朝鮮は弱いが、土地が広く言葉も通じず 統治するには困難だ。と指摘し、意思
の疎通に一々通訳がいる煩わしさは、格別である。とした。また10万人の朝鮮兵は50人
の日本兵で打ち崩せるほど弱く、中国兵は朝鮮兵よりももっと弱い。と聞いているが、
中国の土地は、朝鮮よりももっと広大であるので明の統治はより困難であろうとした。
ここに日本人と大陸人、或いは、欧米人との違いが、多々でている。言語の煩わしさは
日本ほど繊細に記述する単語と、一々の違いに組み込まれたニュアンスの違いが外国語
にはないのだ。代りに思想と行動が、土地の言葉と組み合わされる嫌いが海外にはある
。今でこそ翻訳し意味が通じるのだが、恐らく長崎通詞の頃は、ドンドン新語を作らね
ば理解できない程の隔たりがあったのだろう。時折歴史書にでるルイス・フロイス文書
は、健筆で大著である『日本史』であった。作成された当時、イエズス会においても「
あまりに長く、詳細すぎる。」との理由で刊行が見送られ、完成してから百年以上もの
あいだは誰にもその存在を知られず、マカオの文書館で眠り続けていた。その後、十八
世紀に発掘されて、幾つか写本がつくられたものの、原著は十九世紀に焼失。写本も、
イエズス会が弾圧されていた時期に、世界中に散らばってしまいました。すべての原稿
が収集されるまでに、さらに百年の時を要し、ようやく写本が、フロイスの母国ポルト
ガルで刊行されたのは、原稿が執筆されて四百年経過した、二十世紀後半のことだ。

73名無しさん2022/06/24(金) 01:58:21.94ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。224、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 ルイス・フロイスが記録した「日本史」には、戦国時代の「客観的な」日本の記録と
して多くの事実が記されている。戦国大名の動向から一般民衆の習俗、また災害や地理
の特徴に至るまで、ヨーロッパ人の目線を通して記述されていた。基本的に歴史は勝者
を正義として描かれることが多い中で、勝者にとって不都合な事実は揉み消される。の
がほとんどだ。もし勝者にとっての不利が書かれた記述が見つかったなら、政権の維持
に全力でなかったことなる。そういった中での、日本について客観的な目線で書かれた
「日本史」は、当時の状況を知るための貴重な資料として現代にまで伝わっています。
フロイス日本史には、なんとなく達筆感もある。ルイス・フロイスは「日欧文化比較」
といったなかなか興味深い書作で残しているからだ。この「日欧文化比較」では、日本
とヨーロッパ文化の明確な違いに言及している。「ヨーロッパでは 言葉の明瞭である
ことを求め、曖昧な言葉は避ける。日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、最も重ん
じられている。」曖昧さを尊ぶ文化というのは日本ならではの文化なのでしょう。我々
日本人としては、当然の感覚だ。ルイス・フロイスはそんな日本で30年という様な、
長い年月を過ごし、母国に帰ることなく結局日本の長崎で亡くなっています。明瞭さを
重要視するヨーロッパ人のルイス・フロイスにとって、日本は居心地よく過ごせる環境
だったのかもしれない。1563年7月、31歳のポルトガル人宣教師フロイスは、夢にまで
みたジャパゥンの地を踏んだ。熱病や火事、迫害など絶体絶命の危機に晒されながらも
、徐々に協力者を得て布教を進めていく。しかしあるとき、最大の理解者であったキリ
シタン大名・大村純忠が、改宗に反発する家臣たちに、殺されたとの知らせを受けた。
布教の拠点であった町は焼け、略奪や殺人が横行する混乱のなか、ついにフロイスも囚
われの身となる。

74名無しさん2022/06/24(金) 01:58:55.23ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。225、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 16歳にしてキリスト教のカトリック教会・イエズス修道会に入会したルイス・フロ
イスは、入会直後に当時ポルトガルの拠点となっていたインドのゴアへ赴任しています
。ルイス・フロイスはこのゴアの地で日本へ向けて出向する直前のフランシスコ・ザビ
エルと、日本人初のキリスト教洗礼者・ヤジローとの出会いを果たす。この後ザビエル
司祭とヤジローは日本へ向かい、キリスト教が日本へもたらされることになった。この
ヤジローという人物は、薩摩国出身の立派な日本人なのですが、若い頃に人殺しをして
国外逃亡し、後期倭寇に参加している間にインドに流れ着いたという、なかなか破天荒
な経歴の持ち主でもあります。インドのゴアに残っていたルイス・フロイスは、語学や
文筆の才能を活かし、各地で布教活動を行っていた宣教師達との通信に携わっていまし
た。フランシスコ・ザビエルやヤジローとの会話の中で、日本への興味を募らせていた
ルイス・フロイスは、31歳になるとキリスト教布教のために長崎県への上陸を果たす
。この長崎でルイス・フロイスは1年程の間日本語や文化を学び、当時の日本の中心地
と見なされていた京都へと向かいます。この時すでに三好長慶は病死しており、京都は
三好義継や三好三人衆によって統治され、室町将軍は13代足利義輝が就任しています
。この足利義輝は、京都でのキリスト教布教を許可していたためにルイス・フロイスも
京都での布教活動を開始しますが、ルイス・フロイスが京都で布教を始めてから半年も
経たないうちに永禄の変が起き、宣教師達の保護者となっていた足利義輝が暗殺されて
しまったのである。

75名無しさん2022/06/24(金) 02:00:39.02ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。226、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 保護者を失った宣教師達は京都の支配者・三好三人衆によって、京都を追い出され、
当時自治都市となっていた「摂津国」の堺へと避難します。その後ルイス・フロイスは
3年程の期間を堺で過ごしますが、足利義昭の要請によって京都に織田信長が上洛した
ことで大きく風向きが変わる。ことになりました。三好三人衆を 京都から追い出した
織田信長は、足利義昭を将軍に仕立て上げると、自身を幕府体制の中心に据えてしまい
。自ら京都の統治に乗り出しました。ルイス・フロイスを始めとした宣教師達は自分達
を追い出した三好三人衆がいなくなったことを知り、新たな統治者に布教許可をもらう
ために京都へ戻ります。ルイス・フロイスは、織田信長との謁見を果たし、ヨーロッパ
や東南アジアの情報を提供する。と共に、キリスト教の布教許可を求めました。当時の
織田信長は利権を追い求め、武装までしている仏教の在り方に 反感を覚えていたので
しょう、ルイス・フロイスは織田家領内での布教の許可を得て、ここで布教活動を始め
ていきます。布教許可を受けたイエズス会宣教師は、織田信長の後ろ盾を背景に、保護
されて、畿内で一般民衆だけでなく大名や地方領主達へも 対象として精力的に信徒を
増やしていった。織田信長同様に利権を追い求める仏教に疑問を持った人や、純粋に、
キリスト教の教義に心酔した人などを取り込みながら、信徒数が急速に増加していく。
。ソースがないため信憑性はかなり薄いのですが、筆者は戦国時代末期には日本人口の
10%がキリスト教信者だったという記事を読んだこともある。かなり大袈裟に盛って
いる可能性も 否定できないのですが、日本での急速な普及が感じられる数字ではある
。その前の九州での布教を観ても明らかに長崎・博多・臼杵・薩摩・天草など広範囲の
信者を僅かの間に獲得している。更にポルトガルとの貿易を望んだ戦国大名は、貿易で
儲けるためのキッカケ作りとしてキリスト教に入信し領民を強制信徒にまでしている。

76名無しさん2022/06/24(金) 02:10:44.67ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。227、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 ポルトガルとの貿易は、インドや東南アジアの拠点を経由して行われたため、貿易の
ために地理的に優位性のある九州では多くのキリシタン大名が誕生していた。九州での
多くの人をキリスト教に改宗させたルイス・フロイスは、大物宣教師が来日した時の、
通訳としても活躍を続けた。元より面識のあった織田信長と宣教師の謁見に際しても、
同行している。このため、信長からすれば顔なじみくらいの親しさがあったのかもしれ
ない。ちなみにルイス・フロイスは、わずか三年しかなかった安土城天守閣にも、招待
され案内され、天守に登っている。如何に信長が宣教師達を大事にしていたかがわかる
。本能寺の変が起きて、織田信長が倒れた後、ルイス・フロイスは イエズス会からも
宣教師としての布教活動ではなく、イエズス会の布教用の資料作りの担い手としての、
宣教師の活動記録を残すよう指示を受けている。元々文筆に才能を持っていたルイス・
フロイスはこの記録事業に全力を傾け、全国を回って見聞を広げながら、日本のことを
書き記して、本国の総本山のバチカンに報告していきます。しかし、殆どはマカオの、
支部止まりであったと推測される。キリスト教を、日本に布教するための資料としての
、分析用に作られ始めたルイス・フロイスの文書は、当初の目的から大きく外れ、ただ
の日本の歴史書となっていくのだが、しかし。日本に強い興味を持ってしまったルイス
・フロイスの好奇心は止まらず、豊臣秀吉のバテレン追放令が出た後でも、日本に居座
り続け、各地での見聞を記録に残し続け澳門(マカオ)支部に残している。このルイス
・フロイスの記録は、その後古くて布教用資料として使えない上に、あまりに膨大な量
だったため、長いこと誰からも関心を持たれることなく放置され続けたようだ。そして
18世紀中頃まで150年もの間放置された後に、発見という形で、再評価されている
。その後ルイス・フロイスの記録は、「日本史」というタイトルに改められヨーロッパ
で出版されるまでに至った。

77名無しさん2022/06/24(金) 02:11:57.29ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。228、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 ルイス・フロイスらを始めとした イエズス会宣教師と、織田信長に代わって政権を
牛耳った豊臣秀吉との関係は、当初は良好を保っていました。豊臣秀吉は織田信長同様
にキリスト教にはさして関心を持たなかったようなのですが、ポルトガルとの貿易は、
非常に大きな利益を生み出すため、経済的なメリットを優先する形でキリスト教を容認
している。しかし、豊臣秀吉は九州討伐に向かった折に、長崎で起きていることを知り
、更に博多商人に布教していた宗麟と親しかったイエズス会管区長アレッサンドロ・ヴ
ァリニャーノ神父の補佐として、イエズス会の初代準管区長に任命されたガスパール・
コエリョが着任して来ていたのだ。彼は宣教師でなく船乗りで、難破船を修復してフエ
船を作り上げ、大砲を乗せていた。実は、島原半島の沖田畷(おきたなわて)の泥田での
戦いで、島津・有馬連合軍が龍造寺隆信に勝ったのには訳があった。この時丁度この地
に教会を建てて引っ越しして来たばかりで、薩摩の天草から撤去させられた教会を船で
積んで移築していたのだった。ここを拠点に布教活動していて、大砲も隠し持っていた
。と言われている。有馬軍は、龍造寺軍より一日早くこの地に付いた時、既に 決死の
覚悟で、この教会を守っていたのが晴信であった。対する龍造寺勢は日々陸路で迫って
来ていた。沖田繩手というのは、作られた縄の様な一本路であり、周りは水田に見える
沼地に仕立ててあった。この龍造寺本体に対して、鍋島勢も3艘の船で援軍も駆けつけ
る事になっていたが、あいにく前日は豪雨で海は荒れていたのだ。それでも順調に進軍
をしてきた龍造寺軍は長い一本道を続々と教会に向かって隊列を成して旗をもち攻め入
ってきた。後僅かか。と言う所で突然教会の扉があき2門の大砲を繰り出してきた。雨
の為にしまっていたこの大筒から放たれた弾は次々と放たれて一網打尽の様に敵は倒れ
た、総崩れになった龍造寺軍は僅かになって逃げて行くがそこに両脇に島津・有馬軍が
追い撃ちをかけ、船で逃げたのである。残った鍋島軍も船が出て逃げ場無く惨殺された
この時の大砲を持ち込んだのが、難破した上に助かったガスパール・コエリョであった

78名無しさん2022/06/24(金) 02:14:19.58ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。229、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 宣教師が信長に逢ったのは、天正14年の4月に、九州豊後の大友義鎮が大坂城にまで
黒人の弥助と共にやって来て拝謁したからだ。即ちキリシタン大名の、大友宗麟である
大友氏は、鎌倉幕府が開かれた源頼朝の流れの関東武者だった。南北朝時代は九州一円
を菊池氏が守っていたが、蒙古襲来後、下りの関東武者は住み着いてしまう。九州の内
、奥三国(薩摩・大隅・日向)を島津が勢力を持ち、前三国(筑前・肥前・豊前)を少弐氏
、後の三国を(筑後・肥後・豊後)を大友が優勢に領地を持っていた、側近の家臣を守護
とされて統治され鎌倉幕府のて代官として派遣されていた。元寇に備えるために九州に
引っ越し、それから400年後までも 実に多くの戦いがあって、九州争乱時代とされた。
ただし、少弐勢の持った筑後・佐賀平野は、龍造寺に取って代わられてしまって、島津
と大友が生き残り3鼎立の戦国時代の最期を形作っていた。信長の天下の頃、北九州で
大友宗麟は(1530〜87年)全盛期を迎え、龍造寺隆信は(1529〜84年)が日の出の勢いであ
ったが、前述の様に、キリスト信者の宗麟と、仏教徒隆信は、ザビエルが日本上陸を果
たして以来、反目であった。毛利氏が大内氏を破って以来、周防灘大海戦で大友は勝利
し、その時に駆けつけた黒船は宮崎にあった。宮崎の領地の日向氏だったが、島津貴久
の嫡男・義久さま(1533〜1611年)の軍門に下っていた。ここにキリシタンの理想郷を作
るとして、頭角を現した宗麟は、戦さを挑んだ。島津忠良さまや貴久さまのように傍流
出身でなく、守護家の嫡男で、しかも母親は周防の名門・大内氏出身ということで、若
くして虐められ九州を代表する武将として、自他共に認める存在に変わったのは兄も親
も暗殺し。家臣団も次々に殺めたからだ。もともと、大友家と大内家は博多の支配権を
争ってい。天正19(1591)年に大内義隆は、陶晴賢の謀反で横死し、宗麟さまの弟である
義長(大内義隆さまの猶子、後に解消)が大内家を継ぐなどして、北九州で大友家一色
となり宗麟に抵抗できる大名はいなくなっていた。

79名無しさん2022/06/24(金) 02:15:39.01ID:BKPA9ZKA0
 ジャパン レボリューション。230、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

こうして、その所領は、豊後・豊前・日向・肥後・筑後・筑前・肥前に及び伊予にまで
及んだ。勢力を伸ばし、将軍家からは大内氏の家督継承者とされ、信長からは防長二国
を与えられることになった。少なくとも、大内氏から毛利氏、少弐氏から龍造寺氏に、
交替があった時期、幸運にも北九州をほぼ統一したことは間違いありません。こうして
時の九州武将として宣教師たちと府内(大分)を訪れた。、この時一族の伊東マンショは
、天正遺欧使節のひとりとしてローマへ行った。ここで一方、佐賀の龍造寺家は、主家
の少弐家と争い、大内家と誼(よしみ)を通じて着々と力をつけていた。しかし大内義隆
は鍋島と はかって太宰府の副長の龍造寺家を襲い、南蛮に通じた家老の鍋島を手勢に
していた。しかしここで、蒲池氏は龍造寺の末裔を保護し育てて佐賀藩を統一させた。
鍋島は一時敵対していたが、姉川城陥落で力をつけ和議に持ち込み龍造寺氏は一大勢力
を形作った。しかし、大友氏は島津氏とは和議に応じなかった。しかし龍造寺氏滅亡で
、足踏みしたものの、少弐氏を滅ぼし、肥前東部を支配下に置いた。薩摩では島津義久
や義弘の四兄弟が、父親貴久の死の翌年、元亀3年(1572年)の「木崎原の戦い」では、
日向の伊東義祐(子孫は飫肥藩主)を撃破していた、その翌々年には大隅の肝付氏(幕末
の薩摩藩家老・小松帯刀の一族)などを最終的に服従させて、ほぼ三州平定に成功した
。宗麟は、伊東氏の救援要請に応えて日向へと南下し、天正6年(1578年)の耳川の戦い
で島津軍に対峙するも、道中には、かなりの援軍不和があり、大敗した。ここで宗麟は
勝てば、日向はキリシタン王国にする約束だったと宣教師も連れていた。その意味では
、世界史的な意味のある戦いだったのかもしれませんが、宗麟は“神さまに祈るばかり
”で積極さを欠き、ひどい負け戦であった。

80名無しさん2022/06/25(土) 03:02:15.50ID:FmGO0xsxa

81名無しさん2022/06/25(土) 03:50:42.46ID:5RnpovdQ0
 ジャパン レボリューション。231、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 この大友軍の敗北を見て、龍造寺隆信が、「蕃神(ばんしん)に諂(へつら)う哀れ
な者共よ。と笑って云ったと言う。鳥栖の街道に十字軍として旗を持ち有馬は進んだが
構わずに龍造寺氏は叩いて行く。大友氏の支配下にあった筑前・豊前・筑後などに侵入
して、太宰府から肥前まで進んでいく、肥前西部までさがったが、更に有馬氏らを圧迫
した。ここで有馬氏は、島原まで立ち退き、島津に救援を求めた形になった。そして、
島原半島の沖田畷(おきたなわて)の泥田での罠を敷き島民と共に戦う、島津・有馬連合
軍は、やっとの事龍造寺隆信の首を取った。天正12年(1584年)の事で、正に青天の霹靂
であった。本州で、小牧長久手の戦いがあった年でだ。ここに、九州全域で島津氏に並
ぶ者はなくなり、島津氏による九州統一王国が、現実味を持って支配して行く。それに
危機感を持った宗麟は、天正14年(1986年)にわざわざ大坂まで、秀吉の参陣を求め、助
けを乞いに宣教師と共に秀吉に謁見した。秀吉は喜んで大坂城を案内し、豪華な天守閣
に一緒に登り、宗麟を驚かせました。宗麟は秀長にもお会いになりましたが、秀長は、
「内々の儀は千利休に、公儀の事は秀長におまかせあれ。」と言って、宗麟を激励した
そうである。これに先だって、前年の10月に秀吉は、大友・島津両氏に停戦令を発して
「島津氏は肥後半国・豊前半国・筑後を大友氏へ返還し、肥前を毛利氏に与え、筑前は
秀吉の所領とし、島津氏は本領である薩摩・大隅・日向半国に加えて、肥後半国・豊前
半国を安堵する」といった、解決案の命令を出した。宗麟は停戦令をすぐに受諾したの
に対し、島津義久は、鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、色々と言い訳をするばかりで
、はっきりと受け付けなかった。それどころか、その間に筑前にまで攻勢を強めました
ので、とうとう秀吉は7月に島津への追討令を出し、とりあえず讃岐の仙石秀政には、
長宗我部や十河(そごう)など四国勢を率いて宗麟を、救援するように命じて、毛利にも
出陣を要請した。

82名無しさん2022/06/25(土) 03:51:13.19ID:5RnpovdQ0
 ジャパン レボリューション。232、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 ところが、秀吉の到着までは動かないとの指示を破った仙石秀久は、大分郊外の付近
戸次川の戦いで、島津軍の策略に引っかかり、深追いして散々な敗戦をし、本人は無事
でしたが、長宗我部元親の長男である信親や、十河存保(まさやす)を戦死させてしまい
ました。筑前では、太宰府郊外の岩屋城に拠った高橋紹運が壮絶な玉砕をし、その実子
である立花宗茂が福岡市の東にある立花山城で、奮戦して、ようやく息をつくといった
情勢であったのだった。かねてより信長や秀吉に助けを求めていた大友宗麟を、秀吉は
救援したかったのですが、東では、家康と対峙していることから、思うに任せませんで
した。そこで、秀吉はしぶしぶ、妹の旭姫を わざわざ夫と離縁させたうえで、家康の
後室として送り、母の大政所まで岡崎に行かせて、やっとの思いで家康さまにとっての
好条件で従わせた。信長や秀吉は、それなりに国際的な視野を持っていました。九州に
島津氏の独立王国ができて、海外と勝手に付き合いだしたら、日本という国は瓦解して
しまいかねないこともよく理解していた。また、貿易上の利益からいっても、この新し
い文化や技術の吸収といったことが、南蛮文化の窓口である九州が、是が非でも秀吉に
とって抑えておかねばならない要地である事も知っていた。さらに秀吉は、大陸進出の
夢を信長から受け継いでいた。しかし、当初の秀吉には大陸の野望などそもそもなかっ
た。土地は広いがとくに新しいものはない。東日本にもそれほど魅力がなく、ごたごた
の種になって自ら権勢の敵や反乱にならねば十分で、家康が上手に北条などを抑え東北
の安定を図ってくれてたら良かったのである。が、そうした日本の国家経営を揺るがす
ものが、海外からの次々にやって来る貿易船と宣教師が持って来る新技術とキリスト教
の布教であった。いぶしがる秀吉を決定づけたのが、博多でコエリョの乗せてくれた、
このフエ船であった。

83名無しさん2022/06/25(土) 03:55:10.15ID:5RnpovdQ0
 ジャパン レボリューション。231、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 この大友軍の敗北を見て、龍造寺隆信が、「蕃神(ばんしん)に諂(へつら)う哀れ
な者共よ。と笑って云ったと言う。鳥栖の街道に十字軍として旗を持ち有馬は進んだが
構わずに龍造寺氏は叩いて行く。大友氏の支配下にあった筑前・豊前・筑後などに侵入
して、太宰府から肥前まで進んでいく、肥前西部までさがったが、更に有馬氏らを圧迫
した。ここで有馬氏は、島原まで立ち退き、島津に救援を求めた形になった。そして、
島原半島の沖田畷(おきたなわて)の泥田での罠を敷き島民と共に戦う、島津・有馬連合
軍は、やっとの事龍造寺隆信の首を取った。天正12年(1584年)の事で、正に青天の霹靂
であった。本州で、小牧長久手の戦いがあった年でだ。ここに、九州全域で島津氏に並
ぶ者はなくなり、島津氏による九州統一王国が、現実味を持って支配して行く。それに
危機感を持った宗麟は、天正14年(1986年)にわざわざ大坂まで、秀吉の参陣を求め、助
けを乞いに宣教師と共に秀吉に謁見した。秀吉は喜んで大坂城を案内し、豪華な天守閣
に一緒に登り、宗麟を驚かせました。宗麟は秀長にもお会いになりましたが、秀長は、
「内々の儀は千利休に、公儀の事は秀長におまかせあれ。」と言って、宗麟を激励した
そうである。これに先だって、前年の10月に秀吉は、大友・島津両氏に停戦令を発して
「島津氏は肥後半国・豊前半国・筑後を大友氏へ返還し、肥前を毛利氏に与え、筑前は
秀吉の所領とし、島津氏は本領である薩摩・大隅・日向半国に加えて、肥後半国・豊前
半国を安堵する」といった、解決案の命令を出した。宗麟は停戦令をすぐに受諾したの
に対し、島津義久は、鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、色々と言い訳をするばかりで
、はっきりと受け付けなかった。それどころか、その間に筑前にまで攻勢を強めました
ので、とうとう秀吉は7月に島津への追討令を出し、とりあえず讃岐の仙石秀政には、
長宗我部や十河(そごう)など四国勢を率いて宗麟を、救援するように命じて、毛利にも
出陣を要請した。

84名無しさん2022/06/25(土) 03:58:14.61ID:5RnpovdQ0
 ジャパン レボリューション。233、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 ガスパール・コエリョは、インドでは司祭に叙階され、1572年に日本に到着し、肥前
大村領(長崎県)中心に活動するとのち、下地方(主に肥前地方)で布教活動をした。日本
地区がインド管区を離脱して、イエズス会側は準管区に昇格させた、アレッサンドロ・
ヴァリニャーノ神父によって、1581年にコエリョが、初代準管区長に任命された形を取
った。が、ヴァリニャーノ神父は日本布教にインドや本国からの頸木は取れたが、一抹
の不安はあった。1585年には、宣教を優位に行って、更にキリシタン大名を支援する為
、フィリピンに艦隊派遣を要求しているほどの、コエリョの強引さである。イエズス会
では、日本全土をキリスト教に改宗した際には 日本人を尖兵として、中国に攻め入る
案を持っていた。中国明朝のキリスト教化が本題でイエズス会の最大の悲願であった。
1586年に、地区責任者として、畿内の巡察を行い、03月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見
し、日本での正式な布教許可を得た仲であった。ヴァリニャーノ神父は 南部島津や、
旧来の長崎大名との親交と信者獲得に専念し、九州以北の宣教をコエリョ神父に任せて
いたのだ。この謁見の時、豊臣秀吉の案内で天守閣に昇って、のち、豊後の大友宗麟が
大坂城を訪れた折には、組み立て式の「黄金の茶室」を見る機会を得ている。この茶室
の中で、奴隷解放を求めている。「ふふふ、驚いたようじゃのう。この茶室は武田信玄
が、おのが信濃志賀城を攻めた時に、敵兵を皆殺しにし、その他の者を全て金山での、
鉱夫や情婦として売ったってのう。そやつらが執ってくれた金でのう。どうじゃ見事な
出来栄えじゃろう。のう利休。」「ああお前は嫌いじゃったのう。つまらぬ奴。」一瞥
に附した

85名無しさん2022/06/25(土) 13:36:48.12ID:5RnpovdQ0
 ジャパン レボリューション。231、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 この大友軍の敗北を見て、龍造寺隆信が、「蕃神(ばんしん)に諂(へつら)う哀れ
な者共よ。と笑って云ったと言う。鳥栖の街道に十字軍として旗を持ち有馬は進んだが
構わずに龍造寺氏は叩いて行く。大友氏の支配下にあった筑前・豊前・筑後などに侵入
して、太宰府から肥前まで進んでいく、肥前西部までさがったが、更に有馬氏らを圧迫
した。ここで有馬氏は、島原まで立ち退き、島津に救援を求めた形になった。そして、
島原半島の沖田畷(おきたなわて)の泥田での罠を敷き島民と共に戦う、島津・有馬連合
軍は、やっとの事龍造寺隆信の首を取った。天正12年(1584年)の事で、正に青天の霹靂
であった。本州で、小牧長久手の戦いがあった年でだ。ここに、九州全域で島津氏に並
ぶ者はなくなり、島津氏による九州統一王国が、現実味を持って支配して行く。それに
危機感を持った宗麟は、天正14年(1986年)にわざわざ大坂まで、秀吉の参陣を求め、助
けを乞いに宣教師と共に秀吉に謁見した。秀吉は喜んで大坂城を案内し、豪華な天守閣
に一緒に登り、宗麟を驚かせました。宗麟は秀長にもお会いになりましたが、秀長は、
「内々の儀は千利休に、公儀の事は秀長におまかせあれ。」と言って、宗麟を激励した
そうである。これに先だって、前年の10月に秀吉は、大友・島津両氏に停戦令を発して
「島津氏は肥後半国・豊前半国・筑後を大友氏へ返還し、肥前を毛利氏に与え、筑前は
秀吉の所領とし、島津氏は本領である薩摩・大隅・日向半国に加えて、肥後半国・豊前
半国を安堵する」といった、解決案の命令を出した。宗麟は停戦令をすぐに受諾したの
に対し、島津義久は、鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、色々と言い訳をするばかりで
、はっきりと受け付けなかった。それどころか、その間に筑前にまで攻勢を強めました
ので、とうとう秀吉は7月に島津への追討令を出し、とりあえず讃岐の仙石秀政には、
長宗我部や十河(そごう)など四国勢を率いて宗麟を、救援するように命じて、毛利にも
出陣を要請した。

86名無しさん2022/07/09(土) 13:44:37.35ID:S49IXiCP0
 ジャパン レボリューション。231、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 この大友軍の敗北を見て、龍造寺隆信が、「蕃神(ばんしん)に諂(へつら)う哀れ
な者共よ。」と笑って云ったと言う。鳥栖の街道に十字軍として旗を持ち有馬は進んだ
が、構わずに龍造寺氏は叩いた。大友氏の支配下にあった筑前・豊前・筑後などに侵入
して、太宰府から肥前まで進んでいく、肥前西部までさがったが、更に有馬氏らを圧迫
した。ここで有馬氏は、島原まで立ち退き、島津に救援を求めた形になった。そして、
島原半島の沖田畷(おきたなわて)の泥田での罠を敷き島民と共に戦う、島津・有馬連合
軍は、やっとの事で、龍造寺隆信の首を取る。天正12年(1584年)、正に青天の霹靂であ
って、本州まで聞こえた。小牧長久手の戦いがあった年だ。ここに、九州全域で島津氏
に並ぶ者はなくなり、島津氏による九州統一王国が、現実味を持って支配されて行く。
それに危機感を持った宗麟は、本州に行き天正14年(1986年)にわざわざ大坂まで、秀吉
の参陣を求め、助けを乞い宣教師と共に秀吉に謁見した。秀吉は喜んで大坂城を案内し
、豪華な天守閣に一緒に登って、宗麟を驚かせて九州遠征は約束された。宗麟は秀長に
も会い会話してる。秀長は、「内々の儀は、千利休に。公儀の事は秀長におまかせあれ
。」と言い、宗麟を激励した。実は、これに先だって、前年の10月には秀吉は、大友・
島津両氏に停戦令を発していて、登城を促していたのだ。ここで「島津氏は肥後半国・
豊前半国・筑後を大友氏へ返還し、肥前を毛利氏に与え、筑前は秀吉の所領とし、島津
氏は本領である薩摩・大隅・日向半国に加えて、肥後半国・豊前半国を安堵する。」と
いった、解決案の命令を出していた。宗麟は停戦令をすぐに受諾した。対し島津義久は
、鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、色々と言い訳をする。はっきりと拒否もせず受け
付けもなかった。それどころか、その間に筑前にまで攻めいったのである。ここでとう
とう秀吉は7月に島津への追討令を出し、とりあえず讃岐の仙石秀政には、長宗我部や
十河(そごう)など四国勢を率いて宗麟を、救援するように命じて、毛利にも出陣を要請
した。

87名無しさん2022/07/09(土) 13:53:30.66ID:S49IXiCP0
 ジャパン レボリューション。232、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 ところが、秀吉の出陣し到着までは動かない。との指示を破った仙石秀久は、大分の
郊外の付近の戸次川の戦いで、島津軍の策略に引っかかり、深追いして散々な敗戦をし
、本人は無事だったが、長宗我部元親の長男である信親や、十河存保(まさやす)を戦死
させてしまった。筑前では、太宰府郊外の岩屋城に拠った高橋紹運が壮絶な玉砕をし、
その実子である立花宗茂が福岡市の東にある立花山城で、奮戦して、ようやく息をつく
といった情勢であったのだった。かねてより信長や秀吉に助けを求めていた大友宗麟を
、秀吉は救援したかったのだろう。が東は、家康と対峙していることから、思うに任せ
なかった。そこで、秀吉はしぶしぶ、妹の旭姫を わざわざ夫と離縁させた上、家康の
後室として送り、母の大政所まで岡崎に行かせて、やっとの思いで家康にとって好条件
で、和睦と従わせる事に成功した。信長や秀吉は、それなりに国際的な視野を持ってい
た。九州に島津氏の独立王国ができて、海外と勝手に付き合いだしたら、日本という国
は瓦解してしまいかねないこともよく理解していた。また、貿易上の利益からいっても
、この新しい文化や技術の吸収といったことが、南蛮文化の窓口である九州が、是が非
でも抑えておかねばならない要地である事も知っていた。さらに秀吉は、大陸進出の夢
をも、信長から受け継いでいた。しかし、当初の秀吉には大陸の野望などそもそもなか
った。土地は広いがとくに目新しいものはない。東日本にもそれほど魅力がなく、ごた
ごたの種になって自ら権勢の敵や反乱にならねば十分で、家康が上手に北条などを抑え
東北の安定を図ってくれてたら良かったのである。事実南北朝時代から続く九州騒乱時
代は、少しも幕を閉じることなく、元寇も、菊池水軍の壊滅も、大内・大友の蹂躙も、
いい様に争いは絶えなかったが、ここで秀吉の征伐で止まったのであった。が、そうし
た日本の国家経営を揺るがすものが、海外からの次々にやって来る九州は、既に貿易船
と宣教師が持って来る新技術とキリスト教の布教で蔓延していた。いぶしがる秀吉を、
外国対応を決定づけたのが、博多でコエリョの乗せてくれた、このフエ船であった。

88名無しさん2022/07/09(土) 13:56:59.76ID:S49IXiCP0
 ジャパン レボリューション。233、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 ガスパール・コエリョは、インドでは司祭に叙階され、1572年に日本に到着し、肥前
大村領(長崎県)中心に活動するとのち、下地方(主に肥前地方)で布教活動をした。日本
地区がインド管区を離脱して、イエズス会側は準管区に昇格させた、アレッサンドロ・
ヴァリニャーノ神父によって、1581年にコエリョが、初代準管区長に任命された形を取
った。が、ヴァリニャーノ神父は日本布教にインドや本国からの頸木は取れたが、一抹
の不安はあった。1585年には、宣教を優位に行って、更にキリシタン大名を支援する為
、フィリピンに艦隊派遣を要求しているほどの、コエリョの強引さである。イエズス会
では、日本全土をキリスト教に改宗した際には 日本人を尖兵として、中国に攻め入る
案を持っていた。中国明朝のキリスト教化が本題でイエズス会の最大の悲願であった。
1586年に、地区責任者として、畿内の巡察を行い、03月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見
し、日本での正式な布教許可を得た仲であった。ヴァリニャーノ神父は 南部島津や、
旧来の長崎大名との親交と信者獲得に専念し、九州以北の宣教をコエリョ神父に任せて
いたのだ。この謁見の時、豊臣秀吉の案内で天守閣に昇って、のち、豊後の大友宗麟が
大坂城を訪れた折には、組み立て式の「黄金の茶室」を見る機会を得ている。この茶室
の中で、奴隷解放を求めている。「ふふふ、驚いたようじゃのう。この茶室は武田信玄
が、おのが信濃志賀城を攻めた時に、敵兵を皆殺しにし、その他の者を全て金山での、
鉱夫や情婦として売ったってのう。そやつらが搾取し執ってくれた金でのう。どうじゃ
見事な出来栄えじゃろう。のう利休。」「ああ、お前は奢侈は嫌いじゃったのう。つま
らぬ奴じゃ。」一瞥に附した。という。ところが、宣教師ガスパール・コエリョ他の、
外国人宣教師は違っていた。

89名無しさん2022/07/09(土) 13:58:18.32ID:S49IXiCP0
 ジャパン レボリューション。234、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

「ところで、宗麟殿は、今火薬はどのくらいで扱っている。」「50貫文(50000文)か
ら、100貫文の間かと。」「ほう。奴隷の200人ぐらいか。」と言った。20文〜32文
で人が売買する市場が新勝寺で公然と行われていたのである。現在の価値でいうと1文
は約30円くらいなので、奴隷一人千円くらいで売られていたことになる。この相場は
安く、室町時代初期頃の奴隷の価格が2貫文(2000文)と 価格が100倍で10万円ぐらい
でしかもこれは、奴隷というより、田舎の食い扶持塞ぎの、丁稚や遊郭遊女への身売り
であり、食い詰め浪人の身売り値段と同じ、年季奉公の先行の労務費代に近い仕組みで
あった。戦国時代になって、それだけ売られている奴隷の数が多く、需要と供給のバラ
ンスが崩れて値下がりしていたようで、売れ残るとその場で釈放ということもあった。
しかしして、時の戦国武将は、この鉄砲と火薬の充填に明け暮れ、密貿易は活況になっ
ていて、公然と力の世界に入っていた。秀吉が九州を統一した時に見たのは、宣教師達
が奴隷を買い、鎖で手足を繋がれ、船底に荷物のように押し込まれる農民たちであった
。この言葉に、二人は一瞬にして 顔が真っ青になった。沈黙のままに茶が出され前田
利家にと千利休が出すまで、誰も一言も発しなかった。秀吉が、椀を取りお茶をすすり
「のう、直ぐに、日本人を解放してはくれぬか。」と言うと、「はは。と畳に額をつけ
た。「聞いてくれたら そこの茶室をそこもとのキリシタンに譲っても良い。」と言う
「滅相もない」すると、コエリョがやっと口を開き「その事は、私には権限はありませ
ん。本国に手紙を送って結果を返事します。」と答えた。家康との和平が成ったことで
、後顧の憂いがなくなった秀吉は、天正15年(1587年)の3月にやっと20万の兵で九州へ
出陣し、5月には島津義久を降伏させた。天下統一の過程で奴隷売買を法令により禁止
していたが、九州出兵のこのあとは、秀吉はキリスト教の禁止、朝鮮や琉球王への服属
要求、生糸の貿易独占、博多の大都市改造などを矢継ぎ早に打ち出した。

90名無しさん2022/07/09(土) 14:08:59.01ID:S49IXiCP0
 ジャパン レボリューション。235、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 九州平定後は、毛利から備後や山陰を取り上げ、北九州を与えよとの評議もあった。
結局の所は、島津義には薩摩を、弟の義弘に大隅を安堵し、義弘の子で義久の跡継ぎに
予定されていた久保に対しては、日向国諸県郡のうち真幸院を与えた。一方、地侍で、
うるさ型が揃っている肥後は、佐々成政に任せ立花氏を柳川に入城させている。秀吉は
、筑前国筥崎(現在の福岡市東区)に陣を構え、貿易港博多の再建に取り組んだ。街を、
直轄地としたうえで、入信武将が、帰依し寄進しない対策を取った。唐入り(明遠征)の
基地を考え、筑前に、小早川隆景を伊予から移し入れ、筑前のほか筑後と肥前の一部を
併せて約37万石を差配させたのだ。黒田孝高(如水)は、執拗に豊前国を欲した。小さい
海辺があった城は与えた。6郡の約12万5000石大友宗麟から独立大名として取り立ての
願いで、立花宗茂は、大きく、筑後柳川13万2000石、毛利勝信には、豊前小倉(福岡県
北九州市)約6万石という配置にした。宗麟の子 義統は豊後一国が安堵された。龍造寺
政家、純忠の子・大村喜前や、松浦鎮信はそれぞれ、肥前国内の所領が安堵され、宗氏
にも対馬が安堵される。しかし、あちこちに、蔵入地(豊臣氏直割領)も設定したのであ
った。宗麟ご自身は、残念なことに、九州遠征の最中に亡くなってしまっていたのだ。
たいへんな気宇壮大で、新しい文化にも理解がある武将だが、気まぐれで、気に入った
女性がいると、家臣の奥方にまで手を付ける浮気者でもあった。人望はなかったのだ。
しかし、此処で秀吉が目を見張ったのは他の事だった。フィリピンからの艦隊派遣を求
めたり、日本全土改宗を望み、日本人を先兵として中国に攻め入ると、夢想していた、
宣教師コエリョは、今度はキリシタン大名を支援するために、フスタ船を建造して大砲
を積み込み、それで平戸から出航し、博多にいた秀吉に、わざわざ、見せたのである。
高山右近や小西行長は心配していが、その船を秀吉に献上するよう強く勧めるが、軽く
拒否されていた。

91名無しさん2022/07/09(土) 14:17:41.90ID:S49IXiCP0
 ジャパン レボリューション。236、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 九州平定や日本統一といっても、実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉
との争いだった。この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん、20万
ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められて、翌15年04月21日、ついに
島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れるに至った。その後、秀吉は、薩摩にしばらく
滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。史上有名
な「伴天連追放令」は、この地で発令されたものだった。それは、06月19日のことで、
この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人で、イエズス会の
日本における布教の最高責任者であった、ガスパール・コエリョとの引見の後である。
、引見時には、次のような 四カ条からなる詰問を行っている事が解っている。
一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食するのか。
一つ、なぜポルトガル人は、多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くような
   ことをするのか――。
という四カ条である。大広間に戻って諸大名を前に軍議にはいり、この時同時に秀吉は
コエリョに対し、この伴天連追放令を、突き付けている。この追放令が出されたことで
九州各地や、京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊される
に及んでいく。しかし、秀吉は、交易やキリスト教の信仰自体を 禁止したわけではな
かったため、ほとんどの宣教師たちは、九州などにとどまり、非公認ながらみ布教活動
を細々とでも続けたことがわかっている。つまり各地のキリスタン大名の保護を、一切
禁止した訳ではなかったのである。この問いは様々な人がキリシタンの振る舞いについ
て、誹謗中傷も含んだ苦言を、秀吉に持ち込んでいたからで、これに、コエリョが威圧
的な態度で、秀吉との会食で見せた。如何に世界が広いか、欧州が如何に進んでいるか
、スペインが強いかを力説し、大砲まで撃ち、接待した事の結果であった。

92名無しさん2022/07/10(日) 08:00:22.03ID:1PuAAuHS0
 ジャパン レボリューション。237、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 さて、秀吉がなぜ、急遽、それも博多の宿で、この追放令を出したかだが、その理由
の一つに、西欧人たちが胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている
。宣教師コエリョが、秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉
を乗船させて、「自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせる。」と豪語し
自慢半分、恫喝半分に語った。のであった。このとき初めて秀吉は彼らの植民地化計画
を他の商人から説明され、瞬時に看破したのであった。さらにもう一つ許せないのが、
日本の大事な国土が、西欧人たちによって蚕食され始めている現実だった。それは長崎
に入ろうとする秀吉に、他ならぬ船奉行の小西行長が止めに入ったのだ。既にかつての
往時に、キリシタン大名の大村純忠は、自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシ
タン大名の有馬晴信は、浦上の地を すでにイエズス会に寄進して、日本の領土から、
手を離れたカピタンのものになっていたのだ。従って その了承を得ない事には戦争に
なるので、戦支度を整えて入りたい。と言うのである。そこで、このまま博多に入った
と言う訳である。日本国の支配者たる秀吉にとってこの屈辱は、いかに信仰のためとは
いえ、外国人に、日本の領土の一部を勝手に譲渡する契約などとは、言語道断の出来事
だったに違いない。今後も西欧人たちがそれを足掛かりとして領地を広げていくことは
火を見るよりも明らかだった。最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って
国を乗っ取ってしまう。という段階占領は、西欧列強のお得意の植民地化計画である。
と日本人通詞の薩摩人と弥助が彼に言っていたが、今まさに実行されようとしていたの
だった。

93名無しさん2022/07/10(日) 08:01:16.98ID:1PuAAuHS0
 ジャパン レボリューション。238、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 秀吉はそれを防ぐためには、キリシタン大名や 宣教師たちの 勝手な振る舞いに、
一日でも早く歯止めをかける必要があると考えたのである。さらに秀吉が、この伴天連
追放令を出した理由としては、実はこれが最も大きかったのではないかと研究者たちの
間でささやかれている理由が、もう一つある。それこそが、先の四カ条の詰問にもあっ
た、日本人の奴隷問題だったとされる。戦争孤児が和尚に連れられて、女衒の人買いに
売られて行くのは昔からの日常光景だった。ところが彼らは丁稚奉公の奉公人か、青柳
の橋の下の武家夫人以上に、贅沢な住まいのある花柳界の娼婦人即ち女郎の職業婦とし
ての務めだった。しかし、この当時に和尚の丁稚でもなく、宣教師を前に、日本人の貧
しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを秀吉は
このたびの九州遠征で初めて知ったのだった。唖然としたに違いない。九州遠征に同行
した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港
で連行される様子を大要、次のように記録している。この『九州御動座記』の記録には
「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられた
まま、船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい。――。中略――その上に、牛馬を
買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主(宣教師を指す)も、弟子も手を使って食し、親子
兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている……。」と。同胞の若者たちが鎖
につながれて次々と南蛮船に押し込まれていく光景は大村由己にとってはこれ以上ない
カルチャーショックだったに違いない。これには、秀吉も同然だったろう。鉄と言う、
日本では高級品が、拘束の為に普旦に使われ、正に生肉を血みどろにて、手で食する。
地獄絵図の鬼の画とおなじだったのだ。

94名無しさん2022/07/10(日) 08:02:53.77ID:1PuAAuHS0
 ジャパン レボリューション。239、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 こうした、何とも酷たらしい場面だが、当時の海外に出た西欧の商人にとって有色人
種の奴隷交易には、彼らの宗教ではなんら恥じることのない商取引だった。これはそも
そも、1452年にローマ教皇やバチカン宗教界が、ポルトガル人に対し異教徒を奴隷にし
てもよい、他民族は口の利ける牛馬である。という教えをし、許可を与えたことが根底
にある。更に、牛馬の肉を手づかみで食べる。というのは、西欧ではこの当時、食事に
フォークやスプーンを使う習慣などは、一部の貴族を除き、まだ定着していなかった。
生のステーキを食べる習慣も、あばずれの船員に血さえも食する習慣は残っていたから
だ。ルイス・フロイスも、日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国
に伝えている程、日本の豊かな精神文化に敬意があったようだ。大村由己は自分が目撃
したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ
、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。するとコエリョは、「売る人がいるか
ら買う人もいる。仕様が無い。」と、そうケロッとして言い放った。この言葉からも、
こうした日本人奴隷の交易に、キリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らか
の形でかかわっていたことは間違いないが、その後も海外に連行されていった 日本人
奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと10万人
にのぼる。彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役
されたほかに、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには 南米アルゼンチンやペルーに
まで売られた例も沢山あったという。実は刀を持つ浪人は防衛に、女性は娼婦に子供は
労働力に、年寄りは料理人や子守りにと、かなり日本人ならだれで良かったようだ。

95名無しさん2022/07/24(日) 17:34:09.99ID:y7QZQGm30
 ジャパン レボリューション。240、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 この10万人という数字に関してだが、天正10年に、ローマに派遣された有名な少年
使節団の一行が、世界各地の行く先々でも日本の若い女性が奴隷として使役されている
のを目撃しており5万人と称している。しかし実際にはスペインの他にもあり この何倍
もいたのではないかと言われている。のでとりあえず他国も同じで10万人と記載した
。こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を、即刻停止する
よう命じた。そして、こうも付け加えた。「すでに売られてしまった日本人を連れ戻す
こと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す。幾らほしいのだ」といった
主旨のことも伝えている。(『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』)その一方
で、日本国内に向けて、ただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発してい
る。こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易
はやがて終息に向かうのであった。もしも 秀吉が天下を統一するために九州を訪れて
いなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や 宣教師たちの野望に気づ
かず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。秀吉はその危機を
瀬戸際のところで食い止めたわけである。慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン
船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む
26人が、長崎で処刑された。これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進め
てくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであったようだ。ともすれば、現代の我々
は、秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際
はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。そ
れ故に防御や守護或いは防衛の為の処刑だったのだ。

96名無しさん2022/07/24(日) 17:34:35.43ID:y7QZQGm30
 ジャパン レボリューション。233、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 しかし、秀吉はこのときは、スペイン系のフランシスコ会に対する迫害であり、ポル
トガル系のイエズス会に対しては、特に迫害というものを加えたことはなかったのだ。
この国や南蛮人や紅毛人そして舶来人西洋人と我々は、同じ単語として捉えがちだが、
実は秀吉時代には、大きく意味合いが違っていて、同じキリスト布教に、イエズス会を
キリスタン、そしてスペイン系のフランシスコ会を伴天連、後のオランダ人を耶蘇教と
していたのだ。ここまで見てくると、当時の秀吉は日本の為政者として、領土や国民の
安全を守るために最善の選択をしたように思えてくるのは私だけではないだろう。次の
家康は、この秀吉の方針を継いでいた。恐らく秀吉のキリスタン禁教令時代の軍法会議
の席に出席していた武将の一人だったと言えるだろう。それほど家康には宣教師の布教
には、反対も賛成もないものだった。それが急遽禁教令を受け継いだ政権になっている
。 彼らがが生きていた時代は、世界史でいえば大航海時代でありました。はるか遠く
のヨーロッパから、色々な南蛮人や紅毛人や伴天連人達が、アジアへやって来ては、珍
しい文物を持ち込み、新しい世界についての知識を教えてくれて行く。しかし、彼らは
西洋との交流だけでなく、東アジアの国同士の貿易も独り占めしてしまう野心を持ち、
国益を念頭に行動していた。キリシタン禁教令は、イエズス会の 初代準管区長に任命
された、ガスパール・コエリョという人の傲慢で軽率な行いが禍したものだった。が、
宗麟と親しかったアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、ヨーロッパの習慣にとらわれず
に日本文化に、自分たちを適応させる、という方法で布教に成功して、日本の居心地の
良さすら覚えていたので、コエリョの言動や行動には、おおきな懸念と危惧を抱いてい
たという。

97名無しさん2022/07/24(日) 17:43:13.85ID:y7QZQGm30
 ジャパン レボリューション。234、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 コエリョは、この禁教令に布教活動を停止しつつも、マニラへスペイン人援助を要請
したりしてました。日本国内のキリシタン大名が、秀吉に服従しているので手も出せず
、天正18年(1590年)に失意の内に平戸で死んだのだが、それは自業自得の業のなせるも
のでございました。と宣教師の日記は書く。つまり、秀吉暗殺を画策し、成功した。と
も受けとれる書き方だ。時々、秀吉がキリシタンを禁止したのは、放っておくと、ポル
トガルやスペインの植民地にされかねなかったからだ、という人がいますが、それは、
大正解で、メキシコやペルーで見つかった文書などに、国王書簡やアジア占領の理由が
そこに書いてある。当時のポルトガルは、ゴアだとかマラッカといった要衝を占領して
拠点にしていた。明国ではゴアに居留は認められていましたが、明の領土でなくなった
の訳ではありません。広い領土を治めるといったノウハウも力も、ポルトガルにはなく
、スペインは、フィリピンや中国のように国というものがなかった所を占領し、暴力的
農園や金鉱山の支配で欧州一の帝国を築こうとしていた。明、朝鮮、日本といった国を
治めるなどは無理なことと知っていたのである。狙っていたのは利潤と権益で、キリシ
タン大名を援助して、それを通じての布教や貿易を進めようという施策であり、良けれ
ばその地区の王たる座を目指していた。戦国時代に大村氏は、時代の趨勢から、南蛮船
の寄港を増やすために 長崎周辺を教会に寄付したりしていた事が、判明して秀吉には
対応が迫られた。よって秀吉は強引に武力で、返還させたが、宣教師の不満は大きかっ
たと言える。それらの対応に秀吉が怒って、すぐさまに大名の禁教令をだしたのは当然
であろう。更にコエリョの接待によって、大阪へかえると、秀吉は、キリスト教の大名
外でも、国内の布教を禁止、朝鮮や琉球王への服属要求、生糸の貿易独占、長崎の教会
領回収、博多の大都市改造など、矢継ぎ早に国際関係の調整に乗り出したのである。

98名無しさん2022/07/24(日) 17:49:32.48ID:y7QZQGm30
 ジャパン レボリューション。235、事件〜〜。 (日本の歴史と東南アジア)

 実は、紅毛人というのはイギリス人を指す物だ。フランコ会はフランチェスコを意味
し、文字通り英国の田舎の宗教で、イギリスのカトリック会の修道院である。イギリス
は、もともとカトリックだったが、国王がプロテスタントに改宗して国王を続けた国で
ある。1588年夏のスペインとのアルマダの海戦で勝利する前から、海の航路にはオラン
ダ船と競うぐらいに商用船は公海に出していた。フランコ会と同時に起っていたのが、
ドミニカ修道会である。フランシスコ会は、設立間もない頃から、東方宣教に力をいれ
ていてフランチェスコ在世時にも、当時イスラームの勢力下にあったイベリア半島や、
エジプトなどで活動する修道士がいたことが知られている。1200年代に、托鉢修道会は
仏教の裸体修道会を真似て清貧を宗教上の崇高な教えとした。フランチェスコ自身も、
十字軍に同道し、中東で宣教をおこない、東方教会の根拠地である旧オスマン帝国領内
などにあるカトリック教会は、現在でも、その多くがフランシスコ会によってその運営
が支えられているほど信者に支えられ、ここにアジア戦略を持っていた。エルサレムの
聖墳墓教会、ベツレヘムの生誕教会・ミルク・グロットなどの警護は、その好例でもあ
ろう。この改革の時期に、イエズス会やドミニコ会とならび、「新大陸」と称された、
北アメリカ大陸・南アメリカ大陸やアジアなどの発見が相次ぎ、交易と海外宣教に積極
的に携わって巨万の富を得た。フランシスコ会成立の13世紀、イベリア半島(欧州大陸
)では、レコンキスタ、中東・地中海地域では十字軍の最中であるこの時期から、交易
の陸路がふさがれた。ユーラシア大陸のモンゴル帝国の、広大な版図を築いた世紀でも
あって、ローマ・カトリック教会、即ちバチカンは、イスラーム勢力を撃退、挟撃する
ために、必死の、生死を分けた試みを画策し海にも出た。この時モンゴルと和親を結ぼ
うと、モンゴルに派遣したのはいずれもフランシスコ会の会員である。つまり、この時
国王は、外交特使として、特命大臣の資格を次々に与えてしまったのである。

99名無しさん2022/09/01(木) 09:45:46.45ID:LqFdnynKM
てすてす

100名無しさん2022/09/12(月) 20:19:37.05ID:wsnsl0i80
てs

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