日本では、平安時代の『今昔物語集』に既に堕胎に関する記載が見られるが[1]、堕胎と「間引き」即ち「子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。また小禄の武士階級でも行われた[2]。

当時、妊娠前に育児を調整する手段や知識が乏しかったので、妊娠または分娩の後に間引くのが普通だった。妊娠中の手段としては、腹をもんだり、ほおずきの根を差し入れて流産を促す(掻爬)手段があり、しばしば母体が危険に晒された。分娩後の間引きとしては、膝やふとんで窒息させる方法、石臼で圧殺する方法、濡らした紙を顔にはって窒息させる方法などがよく行われた。多くの場合、取り上げ婆(明治に免許制になる前の産婆)により行われた[3]。

江戸幕府や諸藩の領主たちは労働力減少や田畑の荒廃を恐れ、しばしば堕胎や間引きを禁じたが[3]、それで罰せられるのは稀であり、大人の殺人と同等に扱われた例もない[4]。そのため間引きの風習は明治まで続くこととなった[3]。

仏教や神道は出産に関わる事を禁忌としており、胎児や新生児に関して語る事は無かった[4]。また、赤ん坊は初宮参りという通過儀礼を済ませる事によって産褥が終了し、人間社会の一員になるという一般認識があった[4]。乳児死亡率の高かった当時、「七歳までは神のうち」という言葉が伝えられる地域があるように、子供を正式な人間と扱うようになる期間には地域によって違いがあった。

明治時代になると政府は間引きや堕胎を禁止し、1880年(明治13年)制定の旧刑法と1908年(明治41年)制定の現行刑法に堕胎罪が設けられた。しかし、堕胎はその後も隠れて行なわれ[5]、大正末期には、大阪で病院と製薬会社と旅館が結託し大規模な堕胎手術を行なっていたとして摘発される事件が起きている[6]。

1948年(昭和23年)の優生保護法(現母体保護法)により同法の要件を満たす場合には人工妊娠中絶が認められるようになった。