大日本武徳会総裁小松宮彰仁親王の目に秀雄が留まり、親王の指名で秀雄と渡辺昇が戦った。
渡辺は幕末期に練兵館の塾頭を務め、京都では何度も人を斬り新選組をも恐れさせたといわれる剣豪であったが、
秀雄の薙刀さばきに圧倒され、試合を途中で放棄した[2]。当時秀雄29歳、渡辺は61歳。