この頃、私のまわりには「イカゲーム」を観ていない人がほぼいないほどだ。
韓国産ドラマのみならず、どこの国のドラマもここまで世界的人気を享受するケースは今日までほとんどなかった。
「サバイバルゲーム」というジャンルは、比較的容易に大衆の注目を浴びるが、2000年の日本産映画『バトルロワイヤル』のような類似のジャンルの既存作品もこれほどの人気は得られなかった。
大衆性が高いジャンルや、緻密なあらすじの構成、水準の高い演出などが「イカゲーム」の成功に寄与したことは確実だが、それ以上に大きいのはこの映画の意味深長なメッセージであった。
少なくともノルウェーでは、「イカゲーム」をめぐる議論は主にそのメッセージに集中している。

 「イカゲーム」の画面に登場する鮮血が散り乱れた残酷劇は、もちろん新自由主義的な優勝劣敗、弱肉強食、勝者一人占めを形象化したものだ。
『銭の戦争』に敗北して社会的落伍者になった弱者は、それでも勝者の隊列に合流しようとの一念で、わらをも掴む心情で勝算のほとんどない殺人的ゲームに合流し、そのみじめな死で支配者に苛虐的快楽を与える。
456人の現代版剣闘士と、その殺人場面を目の保養とする6人のVIPとに分けられた劇中の小社会は、確実に「1%による、1%のため」の新自由主義社会のある極端形態を比喩的に見せる。
このドラマのこうした象徴性は、2008年の大恐慌以後の新自由主義批判に十分に慣れた世界の視聴者たちにはきわめて容易で自然に迫る。

 しかし、その他に見逃せないもう一つの重要なメッセージは、まさに被害者の連帯の欠乏、そして被害と加害の複雑な重複だ。
剣闘士役を強要されることになった高額債務者は、究極的に殺人ショーを楽しむ金持ち本位に回る社会秩序の被害者であるに違いない。
だが、彼らも同僚の死を前提とするコースで、ひとまず自分の足で勝利に向かって走るのだ。
連帯して殺人ショーの主催側に共に対抗しようとする試みはほとんど見られず、同僚のために自身を犠牲にして死ぬケースだけがたまに見られる。
殺人ゲームの過程で犠牲になった450人余りの登場人物の中には、相当数が自分の手を同僚の血で染めたのだ。
加害者が運営する体制に対し、組織的に、連帯的に抵抗できない被害者は、結局自らも加害者とならざるをえない。
もしかしたら、この部分こそがこのドラマが投げかけるメッセージの核心なのかもしれない。