てれ東が「なぜ性能うんぬんにこだわるのか」と言っていたのをベースに考えてみる
俺が感じるのは、そもそも荒らしも含めて誰ももはや性能にはこだわっていないのではないかということ

確かしがないさんが「性能おばけ」といったニュアンスのことを以前言っていたと思う
これはモンスターのようなスペックというだけでなく、スペックによって何がもたらされるのかもう誰にもわからない所まで来ている状況も言い表していたのではないか
幽霊の正体見たり…とまでは言わないけど、性能そのものの凄さではなく性能が凄いという評価の独り歩きが「おばけ」を生んだだけではないのかと

ただし、お化けがいるという認識を訂正する手段は限られているし、お化けを生み出す構造自体は今後も活用されていくだろう
子供のしつけにお化けを利用するのと同じように、簡単には「理解」を求められない顧客にお化けの存在を示唆することの有効性が失われない限りは

このことから俺は、いわゆるジャーナリズムの影響で性能にこだわっている、ひいては荒らし自らがジャーナリズムを行うという願望を抱いていると推測する

ゲーム業界で性能という言葉のパワーワード化が起きているという前提での話だけど、この説を採るといろいろなことの説明がつく
ゲームメディアによる情報の氾濫や結論に向かう意志選択の拙速さ、撮って出しを繰り返すルーチンワークにより加速する誤報や誤謬の連鎖などなど
結果論だが、これらによるメディアとユーザーの関係が構造上の絶対性によって保たれており、荒らしもそれを目指しているのではないかと

コミュニケーションが取れないから奇異に映るのではなく、自らが奇異性を内包したコンテンツであるという前提で投稿を繰り返しているのだと結論する