ブチギレだね(´・ω・`)
東京オリンピック開会式への怒りと絶望…ゲームへのリスペクトがない演出とそれをありがたがる人々が許しがたい【コラム】
https://www.gamespark.jp/article/2021/07/25/110634.html
開会式では様々なゲーム音楽が使用されたとのことだ。
見てないし今後見ることもないので詳細はわからないが、すぎやまこういちによる『ドラゴンクエスト』の曲も流れたらしい。
比べるものでもないが、すぎやまこういちが過去にした「オリンピック精神にもとる」問題発言の数々は
それぞれ過去の問題発言や行為を指摘され辞職や解職に至った小山田圭吾や小林賢太郎に劣らない。

ここ一年で流れたニュースによって分かったように「商業オリンピックの本質とは邪悪であり、差別主義者が作った音楽が流れるべき」とするならすぎやまこういちはまさにこれ以上ないほど適任であるだろう。
しかし開会式では他の様々な楽曲も用いられたということだ。『ファイナルファンタジー』や『サガ』シリーズは、“かみ”を殺したり、環境テロリストが主人公だったり
その世界の仕組みそのものを恨むような反権威的なシリーズのはずだ(もちろん解釈は人それぞれあってよいが、少なくとも僕はそう思う)。
件の『ドラゴンクエスト』シリーズ然り、その他の作品にも、単に勧善懲悪の(悪は滅ぼすべき存在であり、みんなで団結し消滅させれば小さな問題は考える必要もない)
短絡的なメッセージをもつ作品は少ないのではないだろうか。そういうものが、本来そのゲームがもつ文脈とはかけ離れ
こんな時だけ(香川県の例を思い出してほしい)国や自治体に都合よく切り出されて使われるのは、ビデオゲームファンとして全く許しがたいことだった。

僕がなにより絶望したのが、同業のゲームライターたちをはじめとして、ゲームファン、クリエイター、インフルエンサー、場合によっては作曲家当人もが
この件に感動しここまで指摘してきた諸問題を見なかったかのように「ゲームが認められた」というような論旨の発言を恥ずかしげもなく振りまきだしたことだ。
国威発揚に都合よく利用されることは認められていることとは全く違う。同性婚の認められていない国で虹色のドレスが登場するのと同じで、
つまりは「利用価値があるうちは、使ってやる」と言われているだけだ。表現は不当に規制され、バッシングの矢面に立たされてきたビデオゲーム文化を、こんな時だけ都合よく使われるのは(
繰り返しになるが)本当に許しがたいことだ。ゲームというものは一人で作るものではないし、
『ドラゴンクエスト』シリーズも、最新作では同性婚を実装するなど、一人の思想だけが反映されるわけではなく、進歩の兆しをみせてきたはずだ。
そうした政治的に一枚岩でない集団の成果物としてのビデオゲームのイメージをここまで「政治的」なメッセージを持つイベントに借用すること自体に問題があるということも指摘しておきたい。

とにかく、今回の開会式にはムカついた。それについてビデオゲームライティングに携わってきた自分が批判的な目線を向けられないのであれば、それは批評の死だし
自分の「ゲームレビュー」にどれだけの価値があるだろうか?そう考えて今、机に向かっている。

秋には衆院選がある。もちろん選択は自由だが、老人たちに「ゲームファンは大増税しても何しても、ゲーム音楽を流してれば文句言わずに従うチョロい連中」
などと思われないことこそが本当にゲーム文化を守ることや、
リスペクトすることにもつながるはずだ。