出生主義者も反出生主義者も恣意的に観ていないのでは無いかな?

よく考えても、よく目を凝らしても何も見えない
その事が観ていないという事では無くて
その事つまり見ようとしても見えない事を
あえて、もう見ないようにしようとあきらめる事による
「観ていない」という方向に走りがちなのでは無かろうか?

ミシェル フーコーみたいな文章になってごめん。