我々の存在は、神に愛され、存在を許された時に表出したのであり、
我々の世界への出現において、神の愛が記される。
本質は、世界の根幹となる基盤であり、それは神の存在で満ちているのだろう。
これだけを記述すると、実存主義はバラ色の優しい世界に感じられるだろう。
しかし、サルトルはそんな凡庸なことでは終わらない。
サルトルが「嘔吐」で語るのは、「存在を望まなかった木」についてである。
存在を望まなかった木は、サルトルにとって異物であった。
神学者であれば「存在を望まなかった木」は悪魔としてとらえられるかもしれない。
 愛を知らぬ被造物。それが「存在を望まなかった木」である。
だから、実存主義者は神に対して孤独であり、世界と離れて孤独である。
もちろん、植物は、無機物のように、何も考えていないとされていた物体である。
 サルトルは「実存主義とは何か」で「かつて、キルケゴールにおいては、
実存主義は宗教的信仰と切り離せないものだった。」と記述している。
 存在することは創造主に愛されたことを表す。自分の人生が神に愛されていなかったのではないかという絶望がある。
実存主義は、キルケゴールに当てはめれば、神に愛されない死に至る病であり、絶望である。
 ガザ―リ「哲学者の自己矛盾」、キルケゴール「おそれとおののき」を読んだら追記する。今はここでこの章の筆をおく。