80年代の音楽に限らず、全てのシーンやカルチャーにおける、ひとつの在り方については自分自身に特別な技術を覚え込ませる必要は、もはやなくなったようにも思える。最低限の基礎的なことは必要だと思うけど、しかし、オリジナリティが溢れていて、冴えた斬新なアイデアさえあれば、誰でもクオリティーの高い表現活動が自由に出来るようになっていったんだと思うんだ。80年代はそんな夢が誰でも見られた時代であったし、実際にプロとアマチュアの境界線を乗り越え、業種の壁さえも打ち破っていくような、エキサイティングに満ちた瞬間がたくさんあったようにも思えるんだ。
しかし、何でもありと言っても、やはり好景気の経済的余裕があってこそが許容されていたような気がする。バブルの崩壊を迎えるのと同時に、80年代という宴は幕を閉じていってしまった。そこから、待ち受けていたのは、今までとは真逆と言っていいほどの、地に足をつけた地道さ、堅実さみたいなものが、皆から称揚されるみたいな反動の季節と言ってもいいような時代が訪れようとしていた。それは、欅坂46というバブル期を経て、そこから櫻坂46に移り変わっていった姿とも重ねて見ることもできるかもしれない。とは言っても、この櫻坂46には悲観さなどは微塵も見られないほど輝いているが。
そうして、こうした反動の季節が過ぎ去っていったとき訪れる、新たなる時代を迎えるにあたって、再び求められ初めているのは既存にあったデジタル技術そのものを、既に達成済みの核となりえるベーシックとして踏まえた上で、新たなるその人自身が作り上げる世界観だったり、それを発するグルーヴの心地よさだったり、その手作り感だったり、それ故の温かさだったりと、いかに過去と新たなるデジタルとの共存みたいなグルーヴを生み出していけるかが今後の鍵となっていったんだと思うんだ。そういう意味で、櫻坂46との共通点は意外と多く見られるのかもしれない。