>>254
浜村のこのインタビューがわかりやすいね

http://ch.nic
ovideo.jp/indies-game/blomaga/ar626342

プレステとともに「ゲームクリエイター」が登場


――やはり、プレステは大きかったんですね。

浜村:でも、僕らが正式名称を「ファミ通」に変えたのは、プレステを扱いたかったからというのはあるんですよ。

当時、スクウェアの坂口博信さんが開発スタジオに僕を呼ぶんです。行って見せられたのが、あの「FFVII」の画面ですよ。


――衝撃ですよね。

浜村:ええ。ただ、実はその前にプレステの画面そのものは見ていたんです。

有名な話ですが、当時まだ無名のエンジニアだった久夛良木さん(※元SCEI代表取締役社長にして、プレイステーションの生みの親)が、恐竜が歩きまわるプレステのデモ動画を関係各所に見せて回っていて、ファミ通にも来ていたんです。
確かに、ポリゴンは、もう凄かったです。

でも、そのエンジニアが「僕らはこれで世界を獲るんです」と自信満々で言いだしたものだから、さすがに僕らは「へ!?」となりました。
見知らぬ技術屋さんにそんなこと言われてもなあ……という話ですよ。
しかも、任天堂全盛期のあの時代です。
だから、「あんた、そんなこと言うけど、どうやって勝つのよ?」と聞いたら、久夛良木さんがもう自信満々で言うの――「だって、僕らはSONYですから」って。

それを聞いて……ああ、SONYにはすごい人がいるな、と(笑)。

――(笑)。ところが、その無名のエンジニアが本当にゲームの歴史を変えてしまった。

浜村:だから、あの人に会うたびに「浜村くん、あんたがプレステを否定したのは、俺は忘れてないからね!」と、ずっと言われてたんですよ(笑)!

話を戻すと、そのプレステの印象が、坂口さんが見せた「FFVII」のデモで一気に変わりました。遠くからグーッと画面が寄っていく、あの迫力。「こんなRPGが可能なのか」とビックリしました。
当時の坂口さんも、まずは一クリエイターとして、プレイステーションというハードに惚れ込んでいたと思います。
僕は、編集部に帰ってすぐに「俺たちは、これからプレイステーションをやらねばならない。雑誌の名前を変えてでも、プレステを応援しよう」と言いました。

――プレステになって、ゲームの内容面で大きく変わったことはありますか。

浜村:ちょうどプレステが出てきた頃、作家性を問われるような作品を生み出す、生粋のクリエイターたちが、大きなゲーム会社の中に現れ始めたんです。

まだファミコンの頃までは、ゲームはオモチャと工業製品の間のようなものでした。
実際、ゲーム会社にインタビューに行ったら、町工場のおじさんみたいな人が現れたりしてね。
それが、あの頃から「ゲームクリエイター」という言葉が出てきたんです。
僕らも「お前らのせいで、ゲームデザイナーがゲーム屋じゃなくなってしまったんだ」と批判を浴びていますよね。
実際、その後は映画のように画面は凄いけれども……というゲームも出てきましたから。

でもね、やっぱりあのとき、確かに日本から登場したんですよ――あらゆるエンターテイメントに造詣が深くて、そして「ゲームクリエイター」という言葉にふさわしいような、そういう生粋の連中が。

具体的には、『バイオハザード』の三上真司さんや、『メタルギアソリッド』の小島秀夫さんのような人たちです。
小島さんなんて、初めて会ったときに「これだけあらゆるカルチャーに通じていたからこそ、あんなゲームが作れたんだ」と感動したものです。
もちろん一方で、山師みたいな連中も、まだまだ活躍できていた時代だったんですけどね。