「なぜ、千尋が両親を見分けることができたのか」という問い
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180520-00007454-bunshun-ent&;p=3

高畑は自らの映画を説明する際に「思いやり」「思い入れ」という言葉をよく使った。

高畑自身が目指したのは「思いやり」の演出だった。場面全体を見渡せる「引き」や俯瞰のショットを多用し、
主人公だけではなく、他の様々な登場人物の抱える事情や、感情の動きを明確に見せる。
それによって、主人公の立ち位置を相対化し、「自分だけではなく、他人の立場を思いやれる」境地へと観客を導こうとする。
『母をたずねて三千里』で、「母を求める主人公・マルコ」の傍らに、
「母に裏切られたヒロイン・フィオリーナ」を置いたのは、その典型例だ。

一方、高畑によれば、日本の多くのアニメーション映画は、観客を作品世界に巻き込むため、
主人公だけに徹底的に「思い入れ」させる技法を発達させた。一見、観客と同じような凡人が非凡な力を発揮する。

ここで高畑の言う「思い入れ」作品の典型例が、宮崎の代表作『千と千尋の神隠し』であることは、高畑自身が明言している。
無気力な少女・千尋は異世界に放り込まれるや、別人のように精力的に動き始め、大冒険をする。
そして、最後は豚に変えられた父母を見分ける試練を課されるが、
即座に「ここにはお父さんもお母さんもいない」と答え、「大当たりぃ!」と絶賛されるのだ。

高畑は問う。「なぜ、千尋が両親を見分けることができたのか」と。その理由は、作中では一切明示されない。
観客は千尋と共に冒険を繰り広げる内に、自然と「千尋(私)ならそれぐらい見分けられて当たり前」と思い込まされる。
それは、観客から「自分自身を突き放して客観的に観察する」視点を奪うことに他ならない。

宮崎自身、『千と千尋の神隠し』の制作中には「こんな絵コンテを描いたら、パクさん(高畑)に叱られる」とぼやき続けていたという。

多くの人々が現実世界で「自分の主観からだけしか世界を観察せず、他者の視点を思いやれず、
善悪を単純に判断している」ことが、様々な社会的対立や戦争を助長している。
高畑の価値基準に照らせば、宮崎の映画は、他人の立場を思いやれない『思い入れ人間』を増やし、
現実社会をより愚かにすることに手を貸していることになりかねないのだ。