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DQの音楽を語るスレ 第96曲 すぎやんのために戦う
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0001名前が無い@ただの名無しのようだ
垢版 |
2018/10/08(月) 21:58:45.99ID:PMUdN55S
※12時間レスがないとスレが落ちるそうです。スレ維持にご協力をお願いします。

■前スレ
DQの音楽を語るスレ 第94曲-2 すぎやんロウ
https://krsw.5ch.net/test/read.cgi/ff/1528021630/


■関連スレ
DQ ドラゴンクエストの音楽総合@ゲ音板
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/gamemusic/1167342222/
避難所
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/game/53981/1325343536/

■関連サイト
すぎやまこういちの世界
http://sugimania.com/
キングレコード
http://www.kingrecords.co.jp/cs/artist/artist.aspx?artist=37898
Wikipedia 交響組曲「ドラゴンクエスト」
http://9ch.net/UM
0843名前が無い@ただの名無しのようだ
垢版 |
2018/11/27(火) 19:16:45.53ID:gU7Oo79v
外国人労働者の受け入れを拡大する出入国管理法(入管法)の改正案を今国会で成立させ、来年4月に施行しようとしている安倍政権だが、すでに
「安い労働力」を確保したい経済界の要望に応じる形で外国人労働者が急増している。
しかし、その外国人労働者に対する人権侵害や過酷な労働環境は放置されたままで、
外国人技能実習制度は、国際社会から「現代の奴隷制」と批判されているほどだ。

保守系オピニオン誌『月刊日本』12月号では、「奴隷扱いされる外国人労働者」と題した大特集を組み、外国人労働者を取り巻く現状を報じている。
同特集記事の中で、元ベトナム難民の立場から福島県でベトナム人の技能実習生への支援活動を行っている岡部文吾氏にインタビューをした記事は驚愕の内容であった。その記事を紹介したい。

――岡部さんは元ベトナム難民の立場から、主に福島県でベトナム人の技能実習生への支援活動を行ってきました。

岡部文吾氏(以下、岡部): 私は1981年にホーチミンで生まれ、
マレーシアの難民キャンプを経て1990年に来日したベトナム人であり、本名をファム・ニャット・ブンといいます。
これまで本当に色々なことがありました。外国で異邦人として生きることがどういうことか、
これは当事者でなければ分からないと思います。私にとって彼らの問題は他人事ではありません。

法務省によると、今年6月時点で技能実習生は28万5667人、そのうちベトナム人は13万4139人です。
実習生は多額の借金をして、出稼ぎ目的で来日しています。借金の相場は最近では80〜100万円ですが、2017年以前は150〜200万円でした。
いずれにせよベトナムの平均年収は26万円、平均月収は2万3000円なので、
彼らは日本で働いて借金を返すまで帰国できません。しかし、労働環境は深刻です。

Aさん(21歳女性)は愛媛県の縫製会社で週6日、毎日朝8時30分から深夜3時まで18時間半働いて手取りは8万円でした。
実質賃金は時給180円です。彼女は耐えかねて入国管理局に連絡して査察が決定しましたが、会社は事前に実習生たちを集めて
「何か話したら帰国させる」と脅しました。査察の際、それでも彼女は自分のメモを見せながら訴え出ましたが、入管には信じてもらえず、会社から激怒されました。
彼女は身の危険を感じて逃げ出し、最終的には労使紛争で正当な報酬を得て帰国しました。

Bさん(24歳男性)は富山県のコンクリート圧送会社で働いていましたが、
毎日のように従業員から首を絞められたり殴られるなど暴力を振るわれました。
「会社を移りたい」と申し出たら帰国を強要され、それを拒否したら宿舎から追い出されました。

福島の建設会社で働いていた20〜30代の男性4人は除染作業に従事させられました。
彼らはそれぞれ逃げ出した後、1人は帰国しましたが、残りの3人は実習先の変更を希望しています。

Cさん(18歳女性)は80万円を借金して来日しましたが、福岡県の惣菜加工会社で働き始めてから1か月で帰国を強要されました。
借金がまるまる残っているのだから帰れるはずがない。彼女は何とか福岡から福島まで逃げてきましたが、
対応が間に合わずビザの滞在期限が切れて借金を残したまま帰国しました。
幸い彼女の場合はそうではありませんでしたが、借金を抱えて帰国した結果家族が路頭に迷うケースは少なくありません。

Dさん(20歳女性)は福島県の食品加工会社で働いていましたが、
日本人の従業員から性的虐待をうけ、妊娠・堕胎を強いられました。
私はクリスチャンの彼女が泣きながら話してくれた内容を信じますが、彼女は被害を訴え出ることなく帰国しました。

技能実習制度では、低賃金・長時間労働、賃金不払い、パワハラ、セクハラ、労働災害、強制帰国など人権侵害の例は枚挙に暇がありません。
みんな本音では母国に帰りたいに決まっています。しかし、借金を返さなければ帰りたくても帰れない。

だから、日本で働き続けるために実習先から逃げ出して失踪する子が後を絶たないのです。
実習生の失踪者は年間7000人ですが、そのうち半分の3500人はベトナム人です。
実習生は留学生と違ってアルバイトができないため、失踪後に路頭に迷ったり犯罪に走ってしまうケースが少なくありません。

――これまでどのような支援活動に取り組んできたのですか。

岡部:私は福島県郡山市でベトナム料理店を経営している関係で実習生たちと知り合い、昨年から支援活動を始めました。
実習先を逃げ出した子たちには食べるものと住むところがなかったので保護シェルターを開設しました。

※続きはソースでご覧下さい
http://hbol.jp/179345
0845名前が無い@ただの名無しのようだ
垢版 |
2018/11/27(火) 19:32:49.24ID:gU7Oo79v
http://www.minpo.jp/news/detail/2018112657774

財団法人大阪都市協会が一九九二(平成四)年に発行した「暮らしと物価 大阪百話」によると、
大阪名物のたこ焼きは一九三五(昭和十)年に誕生した。「会津屋」の屋台で販売していた「ラヂオ焼き」に
タコを入れたのが始まりという。考案したのは会津坂下町出身で会津屋初代社長の故遠藤留吉さん
(一九九七年、九十一歳で死去)だ。縁日で定番のたこ焼きは、会津にルーツがあった。

ラヂオ焼きは昭和初期、流行の最先端だったラジオ放送を屋台で流しながら販売していたため、その名が付いた。
お好み焼きに似たもので、牛すじ肉やネギなどを入れていた。ただ、牛肉は冷めると脂が固まり風味が落ちる。
冷めてもおいしい具材を求めた結果、行き着いたのがタコだった。弾力のある食感が人気を呼び、
「たこ焼き」として戦後、あっという間に広まったという。

留吉さんの孫で三代目社長の遠藤勝さん(46)は言う。

「東北なまりで話す祖父の理想は会津の味でした。今でも、デパートの催事などで関西地方よりも東に
出店するほど『懐かしい味だね』と言われます」

会津屋の「元祖たこ焼き」は会津の郷土料理「こづゆ」が原点だ。生地に和風だしを効かせているため、
ソースやマヨネーズをかける必要はない。熱した鉄板に生地を流し込み、空気を入れるようにしながら丸く形を整える。
ふわふわ、さくさくの焼きたてはシュークリームに例えられる。

初代留吉さんは商売で身を立てようと、家出同然で会津坂下の実家を飛び出した。三十歳を目前にした一九三五年、
遠く離れた大阪の地で脳裏に浮かんだのが恋しい“おふくろの味”だった。母に作ってもらった「こづゆ」を思い出しながら、
しょうゆベースの和風だしの生地を仕上げた。そのレシピは一子相伝で後継者だけが知る。開発から八十三年たった今も
初代の味を守り続けている。

会津屋の元祖たこ焼きは大阪を代表するソウルフードとして愛されている。一九九〇(平成二)年には鉄道会社の
キャンペーンポスターに取り上げられた。

−いやあ降参、と言わせるたこ焼きがあるというので訪ねてみたところ、なんと一日に一万個を焼く繁盛ぶり。
大阪の人に育てられたこのたこ焼き−

このキャッチコピーが会津屋の知名度をさらに高めた。今では、レストランなどの格付け本「ミシュランガイド」で
「地域に愛されている五千円以下のお勧めの店」の掲載常連店となっている。

会津の血を引く三代目勝さんはさらなる夢を描く。

「食べるだけではなく、家庭で焼く楽しさを含めてたこ焼き文化を世界に広めたい」

タコは「悪魔の魚」と呼ばれ、欧米で嫌われ者にされることがあるが、世界全体の消費量は増えている。
大阪市内に立ち並ぶたこ焼き屋には、外国人観光客の姿も多く見られる。会津を起源とする「TAKOYAKI」は今では、
訳す必要のない世界共通語になった。

※会津屋 1933(昭和8)年に大阪市で屋台から始まり、現在は大阪府を中心に9店舗を展開している。
看板商品の元祖たこ焼きは15個入りで620円。2005(平成17)年には、
たこ焼きの原形となったラヂオ焼き(12個で600円)を復活させた。

■優しさで包んだ味 取材メモ

JR新大阪駅から地下鉄で約25分、大阪市南部に会津屋本店はあった。「会津屋」の名前が大きく入った赤い店舗の存在感は抜群。
関西地方で見る会津の文字に自然と心が躍った。

電子レンジが存在しない時代に「冷めてもおいしい」にこだわった初代社長の遠藤留吉さん。ふわふわの焼きたてはもちろん、
冷めても和風だしの風味を十分に堪能できた。食べる人のことを第一に考えた味付けは、会津人の優しさに包まれていた。

宅配も可能。冷凍たこ焼きは大阪市西成区の本店で職人が焼いた後、急速冷凍している。
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