竹田玄洋について語ろう [無断転載禁止]©2ch.net
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2017/04/27(木) 22:26:03.23ID:ereJmTf30
NINTENDO64こそが任天堂が生み出した最強のゲーム機だと思ってる

http://www.geocities.co.jp/Playtown/4007/phy11.html

【 プロジェクトリアリティ 】

1993年8月22日、任天堂は 世界最高のCG・CPU設計技術を持つアメリカの シリコングラフィックス社(SGI)と提携し、
「64ビットCPU搭載の究極のゲーム機」を開発、 95年に250ドルで市場に投入すると発表する。

1992年頃から、アメリカのコンピューター会社などから任天堂に、 マルチメディアを念頭に置いた提携や、家庭用ゲーム機の共同開発などの アプローチが来ていた。

任天堂が追求していたのは、「本物のリアルタイム映像」である。 映像を状況・視点に応じて即座に計算し次々と描き出す、それを 本質的に理解していたSGIと手を組んだのだ。

64ビットゲーム機の開発責任者は開発第三部長、竹田玄洋。
開発コードはリアリティの追求という意味から「プロジェクトリアリティ」 とした。プロジェクトチームは大きく3つに分かれ、それぞれに数十人が配された。

任天堂とSGIは如何に変幻自在なハードウェアを作るか、を考える。
竹田の「ハードウェアを仏像の木製彫刻に喩えると、 いろいろな魂(マイクロコード)を彫刻に吹き込められるように設計すると、
いろいろな優しさ、楽しさを持つ柔らかい仏様を作れるのでは」という発想に基づき、 「フレキシブルで柔らかいハード」を目指した。



「こどもにONIXを与えたい」
開発チーフ竹田の64ビット機のイメージは 「こどもに『ONIX』を与えたい」というものだった。

「ONIX」というのは、シリコングラフィックス社が開発した スーパーコンピューター並の能力を持つ大型コンピューターである。
当時の価格で一台一千万円とも言われ、ゲーム業界でも有力な企業だけが CG制作等に導入していた。とても一般の子供の手に届くものではない。

しかもこの「ONIX」並の能力を持ったゲーム機の目標価格は250ドル以下。 竹田のイメージを実現するためには限界まで機能を絞り込むしかない。
SGIの開発スタッフ全員は、 スーパーNESでゲームを体験、「TVゲーム」を理解することから始めたという。




そして、竹田は、「64ビットはソフト開発者への贈り物」 との考えから、ソフト開発者が新しい挑戦 (音声認識、AI、波や炎の演算など)をするために十分なハード機能を持たせる。
このゲーム機のCPUには、MIPS社の64ビットRISCプロセッサを。音声・文字・画像処理には、
価格を抑えるため「メディアプロセッサ」という データ統合方式のLSIを採用する。 こうした形で、ハードウェアは可能な限りシンプルに構成し、コストを極限まで削減した。

ソフト媒体にはカセットを選択。 アクセスが速く「リアルタイム表現」に向いている事、 様々なチップをカセットに内蔵することで、新たな仕掛けを組み込む事が出来るため。


竹田は「キーポイントはコントローラー」だと思っていた。 それまでの4方向(全8方向)デジタル入力(押す・押さない)に加え、
新たな入力装置が必要であると。 また、開発チームは、ゲームの作り手・遊び手双方に新しい発想の刺激を与えたい、とも考えた。

そして、アナログ(どれぐらいの強さ)で、360度指示が可能な入力装置を開発する。
この入力装置は「3D(サンディ)スティック」と名付けられ、 三つ又状のコントローラ中央に配された。 (他は、左に十字キー、右にボタン群、上にLRボタン、中央裏にトリガー。)

加えて、コントローラー裏面上部に、「コントローラーパック」挿入口を付けた。 マシン本体のコントローラー接続口は4つ設け、データの双方向送受信をできるようにした。


この64ビットゲーム機は、「バーチャルボーイ」に続き、糸井重里氏が名付け親となった。
0002名無しさん必死だな@無断転載は禁止
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2017/04/27(木) 23:16:34.70ID:/RZQd1/50
竹田さんが動いてる映像ほとんど見た事ないな
退任後は動画で色々語ってほしい
0003名無しさん必死だな@無断転載は禁止
垢版 |
2017/04/27(木) 23:18:34.00ID:Ai1Crz7ud
ここで失敗しなきゃ今でも高性能路線やってくれてたんだろうけどな
Wiiの成功から市場が読めずギミックガイジ思考が抜けなくなってるし
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