肥後熊本の加藤忠広(52万石)は,22年(元和8)の江戸城本丸石垣の御手伝普請(おてつだいぶしん)に約5000人の人夫を半年間国元から動員したが,
そのうち1200人が藩お抱えの足軽であり,3400人が百姓,400人が水夫(かこ)であった。このような動員は農村を疲弊させ,それは大名財政の窮乏につながっていく
が,このことがあらわになったのが,38年(寛永15)の島原の乱と41‐42年の寛永の飢饉であった。



このように江戸のインフラや軍事施設は諸藩の犠牲によって築かれたんだよね
地方が疲弊して東京だけが栄えるのは今も昔もさして変わらないw