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テスト
0003名無しさん
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2021/11/26(金) 20:29:33.80ID:dsRheHX0M
ファイナルトンパクト
0004名無しさん
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2021/12/14(火) 17:27:00.98ID:ZZaMbqfx0
てすと
0005名無しさん
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2021/12/24(金) 08:35:55.00ID:z2VTFXzr0EVE
電動キックボードは10k規制にすべし、こんな15kだの20kだのとは 科学的根拠はない。

さらに 英国の様に速度10km以上の物は、全て貸し出し方式として 損害保険やナンバーププレート
さらにバックミラーや方向指示器の付いたものと規定して それ以外は即断没収の上破壊とすべし
0009名無しさん
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2022/05/14(土) 21:49:29.47ID:OVhGq/hv0

tesuto
0010名無しさん
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2022/06/02(木) 00:03:15.34ID:K0e9S4dp0
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0011名無しさん
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2022/06/02(木) 00:06:40.97ID:K0e9S4dp0
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0012名無しさん
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2022/06/02(木) 00:07:09.42ID:K0e9S4dp0
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0013名無しさん
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2022/06/02(木) 00:07:49.00ID:K0e9S4dp0
あれれ・・・書き込めるじゃんか。
0014名無しさん
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2022/06/02(木) 00:09:56.44ID:K0e9S4dp0
やっぱ無理じゃんか 40文字x33行 って書けないの。
0015名無しさん
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2022/06/02(木) 00:14:26.24ID:K0e9S4dp0
 オランダ船リーフデ号は、出航時の乗組員は 110人ほどいたが、日本に到達した時の
生存者はわずかに24名だった。生存者の中でも立つことが出来たのは6人のみで、重傷
者が多く、翌日に3人が死亡したという。翌年中までに更に7人が死亡し、最終的には
生存者は14人となった。生存者の中には、江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨース
テンやウィリアム・アダムス(三浦按針)、船長のヤコブ・クワッケルナック、堺で、
貿易商となったメルヒオール・ファン・サントフォールトも含まれていた。アダムスは
日本に初めて来たイギリス人(厳密にはイングランド人)であった。漂着後、大坂に、
回航され、後浦賀に回航された(回航時に暴風雨に遭って沈没した。とも言われている
)。宣教師やスペイン人の記録によると徳川家康は関ヶ原の戦い時、リーフデ号の備砲
や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。この漂着事件のこと
をリーフデ号事件ともいう。生存した乗組員の多くは、日本に留まることを選んだが、
何人かは帰国を望んだと言われる。しかし、幕府は、なかなか許可を出さず、ようやく
5年後に許可が下り、クワッケルナック船長とサントフォールト航海士が、平戸藩主の
松浦鎮信の支援を得て、オランダ総督への親書を携えて日本を離れる事になったようだ
。1605年12月、オランダ商館が設立されていた、マレー半島のパタニに辿り着いている
。しかしクワッケルナック船長はその後死亡、サントフォールト航海士は、日本に戻り
貿易で活躍した。日本に留まった乗組員の多くは、住居を与えられ日本人女性と結婚し
たりして定住したため、結局、リーフデ号の乗組員で帰国した者は誰もいなかった。と
されている。つまり三浦按針を始め、10人以上が日本の帰化人として定住しているのだ
。1600年(慶長5年)04月19日豊後国佐志生に到着したとされた人々は、こうして江戸
に住み着いたようである。
0016名無しさん
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2022/06/02(木) 00:15:44.65ID:K0e9S4dp0
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0017名無しさん
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2022/06/02(木) 00:18:31.36ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。172、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

メルヒオール・ファン・サントフォールトも、1600年(慶長5年)4月19日に豊後国に、
到着した難破船の船員だった。ウィリアム・アダムスに 付き添って大坂に護送され、
日本に定住した一人であった。1605年(慶長10年)12月02日元船員の航海士のヤコブ・
クワッケルナックとオランダ商館のあるパタニに渡ったが、商館は休業状態だったため
職は得られず、1606年(慶長11年)には日本へ戻ってきた。間もなく、再度パタニアに
戻り、1608年(慶長13年)2月シャム駐在商務員ランベルト・ヘインとシャムに渡り、
日本に戻っている。1609年(慶長14年)7月1日ピーテル・フェルフーフの指揮する、オ
ランダ東インド会社船ロート・レーウ・メット・ペイレン号とグリフィユーン号が平戸
に来航すると、通訳を引き受けた。アブラハム・ファン・デン・ブルークとニコラス・
ポイクの駿府参府に同行し、徳川家康に謁見して通商協定を締結した。帰路室津で別れ
、堺で商売を営んだのだ。1611年(慶長16年)大坂でヤックス・スペックスとセヘルス
ゾーンの駿府参府を助けた。1613年4月末ヤン・ヨーステンと,某国へ通商した時、許可
なく城壁内に入ったため、日本人船員8名が殺された。1614年(慶長19年)07月25日、
シャムから帰国すると、間もなく大坂の陣が勃発、1615年(慶長20年)夏の陣の噂が立
つと、長崎に転居し、商館に属さない自由市民として活動した。その後に、キリスト教
弾圧が強まる中で、第一線を退き、蘭日関係の最盛期を知る長老として慕われている。
1637年トンキンへ出航したヤハト船がサントフォールト号と名付けられ、1638年トンキ
ン付近の砂州で座礁すると、座礁地はサンフォールトの砂州と名付けられた。1639年の
鎖国令で西洋人の妻女が国外追放となると、1639年(寛永16年)10月31日一家でブレダ
号で出航し、台湾に1ヶ月滞在し、1640年1月1日バタヴィアに到着したが、翌1641年に
死亡している。この後、弟のアドリアンは、1614年4月東インド会社ゼーラント支部に
インド航行を申請している。妻にイサベラは、江戸の大工の娘となった。ウィリアム・
アダムスの洋式船建造に関わった大工が養女にしたのだろうか。それとも逆に娘を娶り
名を変えたのだろうか。
0018名無しさん
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2022/06/02(木) 00:27:23.46ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。173、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 産まれた娘にもイサベラと名付けて、オランダ商館長代理の、ピーテル・ファン・サ
ンテン妻となった。もう一人に娘はスザンナとして、オランダ商館長ウィレム・フルス
テーヘンの妻となったとしている。慶長14年(1609年)07月25日に徳川家康朱印状が届
いた船長のヤコブは、オランダ東インド会社の交易拠点であるパタニ(マレー半島)へ
と航海した。その後このクワッケルナックはさらに帰国の途に就いたものの、マラッカ
海峡で、ポルトガル人に殺害されたとされる。海商としての海に一途の人生を捧げた。
が、このリーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナックと乗員のメルキオール・
ファン・サントフォールトの死は、日本にとっては、不幸な事だったのだ。オランダ総
督マウリッツに宛てた親書を持たせて、オランダ東インド会社の交易拠点であるパタニ
(マレー半島)へと派遣したのだから。しかしながら、オランダ東インド会社は1602年
に設立されていたものの、その後は、ポルトガルとの競争が激しく、直ちに、日本との
貿易を開始する余力が、もはやなかったのだ。当時オランダ本国で、スペインに対する
独立戦争を行っていたが、1608年にイギリス・フランスの、仲裁での勢力の現状維持を
前提とした休戦交渉が開始された。このため、オランダ東インド会社は交渉成立以前に
「現状」を拡大することが得策と考えて、アジア地域の艦隊総司令であったピーテル・
ウィレムスゾーン・フルフーフに、可能な限りの交易地域を拡大するように指令してい
たのである。この指令に従い、1609年フルフーフは、平戸に向かっていた。スペックス
もこの一員に加わったのである。1609年平戸オランダ商館が設立されて、スペックスは
11隻からなるフルフーフの艦隊の一員として、1607年にテセルから出帆した。バンテン
に到着後に、日本との交易を開始するため2隻が日本に向かった。
0019名無しさん
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2022/06/02(木) 00:34:12.80ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。173、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 慶長14年07月25日(1609年08月24日)付けの家康の朱印状では、オランダ船は日本の
どこにも寄港できる。と記されていた。この2隻は、デ・フリフューン号(砲19門)と
ローデ・レーウ・メット・パイレン号(400トン、砲26門)であった。両船は 1609年7
月2日には平戸に到着して、直ちに、アブラハム・ファン・デン・ブロックとニコラス
・ピュイックの2名が マウリッツ総督の親書を持って、駿府の徳川家康のもとに赴き
、通商を要請した。家康は慶長14年7月25日(1609年8月24日)付けの朱印状を下付し、
オランダ船の来航と安全を保障し、また来航地と商館設置場所の自由を与えた。この時
の通訳こそリーフデ号の乗組員であった メルキオール・ファン・サントフォールトで
、当時長崎での交易を既に行っていたのだ。しかしながら、家康側に於いては、江戸に
近い浦賀での交易を期待していたようで、船上の会議においては、平戸に1軒の家を借
り、オランダ商館を設立することが決定されている。これは、既に、豊後での、焼き討
ち事件の経過や、平戸の藩主松浦氏と長崎氏の確執があったのを知っていたからだろう
。当時太平洋側の航路は、十分には開拓されておらずに、またスペイン・ポルトガルの
交易地である長崎には、近く情報収集に便利であるということも、その理由であった。
何よりも広大な市場だった中国情報は、九州博多の場所以東には、なかなか届かなかっ
た事が主だった。とも考えられる。スペックスは初代の商館長に任命される程信用を得
て、スペックス含め6人が平戸に残ることとなった。スペックスは、ウィリアム・アダ
ムスの協力を得ることができ、1613年まで商館長を勤めていたのである。当時1610年、
朝鮮に、船を派遣して実利を得ていたのである。さらに3代目の商館長として1614年〜
1621年まで、平戸にあったこの商館の時期には博多撚糸事件にも関連があったとされる
。この間の1620年、こうして平山常陳事件が起こるが、スペックスは、イギリス商館長
であったリチャード・コックスと協力して事件の解決に貢献している。
0020名無しさん
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2022/06/02(木) 00:44:55.02ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。174、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 が、そんな中、サラ・スペックスの事件スキャンダルが勃発したのだ。スペックスは
、1617年に、日本人女性との間に娘サラをもうけたが、サラは、バタヴィアで暮らして
いた。1629年6月、サラが12歳になってから、この東インド総督邸内で、15歳の少年と
関係を持ったのである。このため、少年は斬首させられ、サラも鞭打ちの後、溺死させ
られるところを、かろうじて支配人奴隷によって免れた。スペックスが東インド総督と
して着任する直前の事件であった。1632年5月、15歳となったサラは、強制的に35歳の
宣教師、ジョルジウス・カンデデュウスと結婚させられた。これは当時でも年齢差が、
あまりの新婦の若さにうわさの種ともなったが、1633年6月になってサラは夫に伴われ
て、台湾に渡って新港で暮らすことになった。だが不幸にも、3年後は熱病にかかって
、1636年19歳で同地に没したのである。日光東照宮陽明門の上り口、鼓楼近くに、銅製
の廻転灯籠がある。寛永20年(1643年)、オランダ国(オランダ商館)からの奉納で、
灯籠上部に取り付けられた「葵の紋」が上下逆さであることから「逆紋の廻り灯籠」と
称されている。附(つけたり)・銅燈籠として、国の重要文化財に指定されています。
これが、スペックスの奉納とされる。オランダ商館は、慶長14年(1609年)、オランダ
国との正式国交が開けた時に平戸に設置され、寛永5年(1628年)のタイオワン事件を
起こし、(長崎代官・末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツとの間で起
きた紛争)で閉鎖された。そこに尽力し寛永9年(1632年)になって再開されたものの
、寛永17年の(1640年)、建物の破風に 西暦年号が記されているのを口実に、長崎・
出島への移転を余儀なくされた。と言われる。寛永16年(1639年)に、ポルトガル船の
来航も禁止されているので、廻転灯籠が奉納されたのは、そうした政治情勢を背景に、
3代将軍・徳川家光が整備に力を入れた日光東照宮への建設に、徳川幕府へ取り入ろう
という明確な目的があった寄進を行った。とされる。
0021名無しさん
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2022/06/02(木) 01:05:55.59ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。174、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

ヨーロッパの貴族にも紋章はある。がこの燈籠は、取り付ける葵の紋の上下を取り違え
るという大失敗を犯している。そのまま修正せずに設置した点も、何らかの判断が下さ
れた。と想像すれば、当時のデリケートな外交政策を垣間見ることができます。この、
廻転灯籠はオランダ本国で造られ(設計:ヨハネス・ルトマ、制作:ヨーストヘリッツ
ゾーン)、オランダ国王の名で奉納されたため、将軍家もこれを許したと伝わっている
周辺にはオランダ国寄進の釣灯籠、蓮灯籠もある。実はこの東照宮には幾つかの謎とき
が隠されていて、未完の柱と言う物もある。つまり建設が終わらない事が吉兆とした。
と言われる柱だ。完成すれば後は衰退なので、完成させない。と言う訳だ。更に昇り龍
伝説もある。龍が降りて来て図と昇華する龍の二つが一双になっているが降りて来た龍
こそが昇竜というのである。又、見猿言わ猿聞か猿は、東照宮三猿と言われ、漢語の、
「不見、不聞、不言」を訳したものが天台宗の教えとして伝わった。とする説で、論語
の「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」「礼にあらざれば視るなかれ、礼にあ
らざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ」と
いうもので、この「不見、不聞、不言」の教えが、8世紀ごろ日本に伝わったとされて
いる物語を説くとされる。その他各国にある同様の言葉は「見るな聞くな言うな」があ
るのだが、実は天海和尚説話ではちょっと違っている。非あれば、まともに見るな言う
な。と言う物でキリスト教の様に、人は罪を背負って生きてるので他人を批判するな。
と言う事らしい。つまり人の一生を台無しする恐れを説いた。というのである。他の猿
を観ても一生の人生を描いているので、納得する。そしてその大きな意味は、東照宮の
あらを探すな。と言う事らしい。これはこれで意味深である。
0022名無しさん
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2022/06/02(木) 11:00:58.53ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。178、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 江戸幕府の中で、当初から財政が厳しい薩摩藩は、日本西南端に位置して大陸に近く
、しょっちゅう中国船が漂着したし、また琉球を通じて、唐物が安く入る利点を生かし
ての「抜け荷」は、国是であったのだ。当初の幕府の政策は、貿易ならずもキリスト教
さえも少々は多めにみていて、処罰の対象とは、なって来なかった。この事が判っても
らえたであろうか。重豪の命によって、財政改革に乗り出した薩摩の調所広郷の方策の
一つでも、全く同じく、またもや「抜け荷の強化」だった。のである。そもそも薩摩藩
は、地政学上、抜け荷を、重要産業の一つとしてとらえて産業化して貿易する道しか、
残されていなかったのだ。桜島を抱え喰うには困らないまでも、遠路の参勤交代などは
不可能で、幕府の禁令を犯すことには何の痛痒も感じていなかった。又、感じていたと
しても、抜け荷の旨味からは、抜け出せる事など不可能だっただろう。藩内の財政改革
に腐心した重豪が、例外であった筈がない。重豪は歴代のオランダ商館長と親しい間柄
でもあった理由はそこにある。彼が親交を深めた商館長は数多く、この物語の主人公で
あるドゥーフとも、最も親密な関係を築いている。その交友関係でも、幕府の目を惹い
たのがヘンミイとの間柄である。ヘンミイは、ドゥーフが初来日する前に商館長として
、江戸参府し、前年に参府からの帰途の掛川で、客死した。出島に着いたドゥーフが見
たのは、留守役でうろたえたラスと、帳簿記帳が何年も無いなどの、規律の紊乱した中
の商館であった。このヘンミイは、謎が多い商館長でもあった。一説に彼には、莫大な
借財があったと言われる。一体どのような経緯から そのような借財が生じたのかは、
今となっては分からない。が、彼の江戸からの帰途を見舞ったのが、重豪であったよう
に、二人の関係には 何やら闇の部分がある。前述で、見たようにも、スチュワートに
も、海運が関わってきたことから、抜け荷に関わる何事かが進んでいたようなのだ。そ
れに幕府も気が付いていて、ヘンミイ在任中に送り込んだのが、俊英近藤重蔵だった。
0023名無しさん
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2022/06/02(木) 11:12:29.57ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。179、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 近藤重蔵(じゅうぞう)は、1771年(明和8年)小身旗本(御先手組与力)の三男とし
て生まれ、家禄は 250石足らずと推定される。当時の徳川幕府家臣団は約8万人もいた
。今の都庁職員は、16万人、御先手組与力は、戦乱となれば槍または鉄砲で先陣を切る
足軽団で、町奉行与力よりは位が高かった。重蔵の生家は都庁でいえば古参係長か課長
級クラスである。幼少期から神童の誉れ高く、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾を
開き、生涯で記した本が1500余巻という極めて有能な官史であった。(近藤重蔵wiki)
現代でも、滅多にお目にかからない神童だったと言える。「1794年(寛政6年)に松平
定信の行った湯島聖堂の学問吟味」に合格したことで優秀さがお墨付きになった。この
近藤重蔵を、日本史上で普及の名前にしたのは 自ら志願したという北方調査で、千島
列島や択捉島を探検し、択捉島に「大日本恵土呂府」の、木柱を立てたことである。こ
の事で全国に知られている。間宮林蔵時のロシア帝国、そしてソ連邦時代を経て、再び
ロシアが不法に占拠する北方領土が、実は日本帰属を確実にしたのが、近藤重蔵であり
、いまや日本政府の不甲斐なさに、この泉下で さぞや悔しがっていることであろう。
この大偉業に先立つ事 1795年(寛政7年)、重蔵は長崎奉行手付出役として、長崎に
赴任した。なぜこの年に幕府が、秀才の誉れ高い重蔵を長崎へ送り込んだのか?それは
当時の商館長ヘンミイと島津重豪の間に抜け荷の疑いがあることを解明するためだった
のだ。長崎奉行として、赴任したばかりの 中川飛騨守忠英(ただてる)は、後に幕府
大目付という要職に登り詰めた能吏でもあった。歴代の長崎奉行の課題である薩摩藩の
抜け荷が、島津重豪という、今や将軍家の岳父である超大物によって、のっぴきならな
い段階まで来ていることを突き止めるために、この重蔵を抜擢して長崎奉行手付出役(
しゅつやく)を務めさせ探っていた。現代での、出張/出向の支店長補佐である。配下
に置き、目安方(民事刑事訴訟に携わる一方で、隠密、探索などが本務の役職)に据え
(すえ)た。
0024名無しさん
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2022/06/02(木) 11:28:28.45ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。180、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 重蔵は2年半の長崎在勤中に、唐人屋敷や、オランダ商館を 頻繁に訪ねては、中国
関連は清俗紀聞(8冊)、オランダ関連では紅毛書(5冊)などを編纂した作業をして
いる。が、これ等の作業はオランダ商館へ立ち入るための、口実であり、実はヘンミイ
が画策していたのは、抜け荷の証拠を掴むためであったとされるだろう。オランダ商館
で疑われずに、捜査に当たるために海外事情調査と称しての唐人館に出入り、この館員
の顔なじみとして出入りした。これはオランダ商館が主目的と見破られないための方策
で、清俗紀聞を編纂し、同じことをオランダ商館で「紅毛人へ本草、物産類の儀、相尋
ね」(「抜け荷」山脇悌二朗)て、紅毛事情としてまとめるため、という口実でオラン
ダ側の警戒を緩めていたのである。言わばオランダ産品のリピーターである。この事で
、あらゆる書類にアクセスしたと思われる。出島の(中の通り)には 右には倉庫、左
に唐人屋敷があり、商館長の部屋にも、許可を取れば入る事も 許される身分だった。
この時のオランダ商館のNo2は、ドゥーフで、彼が能力を見限った程のラスだったから
重蔵にとっても、仕事がしやすかった面があるかもしれない。そして重蔵はまさに期待
された通りの成果を上げた。小通詞(しょうつうし)末席の名村恵助とヘンミイの間で
交わされた密かな計画の探知である。その内容は、水戸の史館総裁であった「立原翆軒
(たちはら すいけん)」がオランダ大通詞であった 楢林重兵衛から聞いた。という話
として残っている。すなわち、「蘭船二艘来るうちの一艘は、海中にて 中買せんとの
約束の文なり。」(「抜け荷」山脇悌二朗)というものだった。「海中(海上)にて、
中買(仲買)」となれば、その瀬採りの作業の、それが可能なのは、薩摩藩しかない。
何度も書いているが、南から北上するオランダ船は、長崎よりも先に薩摩領に立ち寄る
ことが可能だからだ。仮に長崎近くで、文書でも見つかれば命取りである。かと言って
割印のある証文こそは、取引の要だった。こうした中沖縄から九州の島南端の鹿児島ま
では、薩摩の行政支配地であったからだ。
0025名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 11:45:55.21ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。181、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 商館長自身が絡んだ、この恐るべき計画の探知時期は、重蔵の長崎赴任中の最後の頃
だと思われる。極めて優秀な重蔵の頭脳をもってしても、清俗紀聞8冊や、紅毛書5冊
の編纂をするには、2年は必要だったろうからだ。2年半以上が過ぎた1797年末(寛政
9年)に重蔵は 長崎赴任を終えて江戸へ戻る辞令が出る。すなわち動かぬ証拠を見つ
けたから、これ以上の長崎奉行所での勤務の必要がなくなったのである。では近藤重蔵
が探索を命ぜられた、島津重豪とヘンミイの計画。とは何だったのか?これを少し解き
明かしたい。まず、島津重豪の事情から見ていく。前の章で触れたように重豪は新たな
借財のために大阪の商人と、頻繁に直接会って掛け合うほどに、金策にあぐね懸命だっ
た。500万両 にまで積み上がった借財は、必ずしも重豪のせいではない。(島津重豪論
)しかし、それでも重豪の統治下での返済と、進められた数々の事業(造士館、演武館
、医学院、明時館等の創設)の資金や、更に、熱中した鷹狩り、蘭癖大名と呼ばれた様
な舶来品への執着と収集、高輪(重豪)と白金(「近思録崩れ」で重豪に隠居させられ
た斉宣)、二つの 隠居御殿の維持と手当・・・・などは、いずれも、金のかかること
ばかりで重蔵の時代に積み上がった物だった。大阪商人との直交渉に、出頭出馬したの
も、それを自覚していたからこそであろう。歴代の商館長と深い付き合いがあり、ヘン
ミイも例外でなかったから、重豪側は、ヘンミイの窮状を知り、お互いが協働すること
でヘンミイにも、薩摩藩の財政危機にも、役立つと思ったのではないか。ヘンミイから
の窮状とは、「スチュワートの登場」でみたように恐らく「銅」であった。日蘭貿易に
よる昔日の巨大な儲けは、今や昔話となり、薩摩藩と同じように積み上がった借財での
財政危機にあったオランダ東インド会社にとって、唯一の解決策で、莫大な利益をもた
らすのが日本の銅しかなかった。と思われる。
0026名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 13:28:46.00ID:K0e9S4dp0
ジャパン レボリューション。181、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 ところがこれは薩摩に限った事では無かった。江戸幕府も又、財政逼迫は同じだった
のである。松平定信の寛政の改革で、オランダへの銅の輸出額は、年20万斤にまで大幅
に削減されていて、長崎からの上納金が、裏金まで合わせ半分以下に減っていて、前章
で明らかにしたように、幕府で無くば、出島を閉鎖する程落ち込んでいた。役人給与や
こうした通詞他、色々な経費を出入りの商人の、特権売り、や藩からの上納寄付で経費
を持ちこたえていたものと思われる。、1797年〜1798年にオランダ商館が仕入れた銅は
、現代の価値で9億円から18億円程度である。ヘンミイは前商館長から買い付ける銅
の量を増やすことが、最大の任務だと厳命されていた。忠良なる東インド会社の派遣員
としての義務だけではない、オランダ東インド会社の儲け自体は、直接に自分の功績と
なり行くもので日本は非常に大きな要件を満たしていた。駐留の自衛経費、即ち軍隊と
その防備の兵力と城が、この国だけは要らなかったのだ。付随して、その分自由時間も
自由裁量も広く、自分の富を蓄積できることにつながる。だから商館長たちは必死だっ
たのだ。そうした事に重豪は、当然、気が付いたのだろう。先に触れたように薩摩藩は
銅を動かせる兵で守る事も日本の海を教える事も出来る。こうして薩摩藩御用達の大阪
商人を使うのである。「大坂三郷の総年寄」の薩摩屋仁兵衛は、大坂で薩摩の国産物を
扱う随一の問屋でもあり、薩摩蔵屋敷の蔵元でもあった。薩州国の産物を捌いた代金を
銅銭で受取り、ないしは、それで銅を買求めていた。大阪の銅座は、毎年九十万斤ほど
を国内用にリザープしていたのだ。それをかれに送らせればよかった。(「抜け荷」山
脇悌二朗)こういう構図で順調な中にあった。仁兵衛は薩摩が密かに手に入れる唐物の
販売を手掛けてもいたのである。
0027名無しさん
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2022/06/02(木) 13:40:56.99ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。182、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 この重蔵の頼みに、当然に、抜け荷行為である政商の 仁兵衛は薩摩が密かに手に入
れた 唐物の販売を手掛けていたので、重蔵に二つ返事で了承したであったろう。ヘン
ミイにしてみれば、仁兵衛が動かす大阪銅座の九十万斤から融通してもらえれば、幕府
割り当ての、20万斤の二倍や三倍の銅を、バタビアへ送り出せることになる筈だ。重豪
と仁兵衛にしてみれば、幕府(長崎奉行所と長崎会所)が卸す銅価より、高い値付けを
すればよいだけでの商売であった。銅を、国内市場用からヘンミイに横流しすれば、そ
れだけで儲かることになる。ヘンミイは高い銅を仕入れても、結局欧州市場ではもっと
高値で捌けるのだから。これは三方一両得の、win win 関係になる。問題は受け渡しの
方法のみであった。それが、蘭船二艘の帰航とうち一艘が「海中で中買」するという 
このことになったのだろう。このようなスキームは、どう構築されていったのか。そこ
を解明したのが近藤重蔵である。当時、今籠町という町がある。ここには通詞や出島で
の雑用などに関わるもの雑貨使用商人が多く住んでいた。のちに1828年(文政11年)
シーボルト事件が起こった時にも、処罰された小通詞やら稽古通詞たちも、多くはこの
今籠町(いまかごまち)に住んでいた。通詞の為の町と言ってもよいような町だったろ
う。通詞は、長崎のエリート階級である。舶来品やオランダ語の会話が行き交うような
、当時からエキゾチックな街だったろうと想像される。だが明治大正昭和の、街区整理
で、町名変更や町屋が壊された事ににより、今籠町は今の長崎には、存在しない。町名
は、昭和41年に鍛冶屋町に吸収され、今籠町くんち奉賛会の働きによって、諏訪神社
例大祭の、「おくんち」の踊り町として平成21年に、やっと復活した。古地図による
と、今石灰町の東側、崇福寺と大光寺の辺りになる。正確には当時どこにあった町なの
か。この疑問に答えてくれる復元図が、長崎文献社より2009年(平成21年)出版されて
やっとわかる事になった。
0028名無しさん
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2022/06/02(木) 17:55:55.10ID:K0e9S4dp0
 『長崎惣町復元図(布袋厚氏作成)』は今も残る「長崎惣町絵地図」(十畳間の大き
さの明和年間に作られた精密な測量図。)と、様々な古地図を基に詳細な現地調査と、
数式をも使った実に緻密な照合作業で、現代の地図の上に、正確に昔の長崎の街を復元
した物だ。この作業を解説した、『復元!江戸時代の長崎布袋厚』という著書がある。
布袋厚氏の偉業によって今籠町の場所と、サイズ感が現代に、よみがえらせたものだ。
布袋氏の復元図によれば、思案橋の交差点から北へ寺町通りに向かって歩き、左に銀嶺
を見る五差路の交差点、ここが起点である。角には花屋さんもあり、なんとなくパリの
街角を思わせる華やかな雰囲気を偲ばせる。ここから右手に崇福寺(唐寺、国宝)へ向
かって伸びる緩い上り坂。これがほぼ元の今籠町である。現在の車道の真ん中に昔の通
りがあったと考えられる。その幅は、今の歩道程度であったろうか。現在の今籠町を見
てみると。布袋氏の地図によれば、通りを挟んで東西の幅60m、南北の長さ約190の町で
ある。これは銀座で言うと、銀座4丁目(晴海通りからみゆき通りまで)の 2ブロック
程度になる。面白いことに、これは出島のサイズにとても近い。出島は東西180南北73m
と考えられている。出島は、長崎の町と似たようなサイズで設計されたことが類推され
る。出島の中には、65軒の建物があったそうだが、倉庫や、西洋式の大型の家屋が多い
ので、今籠町は100軒ほどの日本式町屋が あったのではなかろうか。当時の人口は定か
ではないが、現代と違ってプライバシーという概念も無く濃密な人付き合いが当たり前
で人別帳(戸籍)もあった。江戸時代には、どの家に誰が住んでいるか皆が知っていた
。ここに、今籠町トライアングルと言っても良い様な、3人が関係を結んだ理由もある
。一人は堀門十郎。島津重豪とつながる通詞である。もう一人は名村恵助。小通詞末席
という通詞社会の中堅だが、名門名村家の一員である。町家を所有して列席に並んでい
たのだろう。最後の一人が、忠蔵である。姓が無いのでわかるように、出島に出入りし
て、雑用を引受ける下働きであった様である。言わばヘンミイの召使であった。そうい
う事で、長屋住まいだったと考えられる。
0029名無しさん
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2022/06/02(木) 17:57:22.29ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。184、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 堀 門十郎は、3人の中では一番の大物である。近藤 重蔵が秘密任務のため長崎入り
した当時、1795年(寛政7年)に、既には、経験豊かな大通詞であった。大通詞は通詞
社会のトップに君臨している。年番大通詞(年の当番の大通詞)の時にはオランダ商館
長の江戸参府に同行する役目もあった。オランダ船が入港すれば、商館長とともに直ぐ
に船長と相対し、風説書を作成する。という作業がなされ、これは、国家機密の作業に
従事してた事を意味する。「堀門十郎は、天明三年三月三十日、楢林重兵衛が大通詞に
昇進した。後を追って小通詞に進み、寛政元年には年番大通詞を勤めている。だから、
天明八年ごろ大通詞に昇進したものであろう(『年番通詞一覧』「島津重豪」芳即正」
と書いている。先に紹介した通り、大通詞の収入は年三千両(テール)という情報は、
元禄年間にオランダ商館付きの医師として、来日したドイツ人のケンペルが書いた話で
あって正確であろう。(「阿蘭陀商館物語」宮永孝)。堀川門十郎は、今籠町きっての
豪邸に住んでいたことであろう。ただし、元禄年間は、日蘭貿易が盛んで、長崎の貿易
バブルが絶頂期の頃である。人口も長崎奉行管轄地で5万6千人であったし、丸山町の
寄合町の傾城町は千人もの遊女で賑わっていた。この物語の寛政の頃には、松平定信の
改革により日蘭貿易はかなり収縮していたようだ。またナポレオン戦争のために、バタ
ビア(ジャカルタ)は 長崎渡航の蘭船の確保も困難になって来た。市街の人口も、3
万人に減っている。そのためケンペルが言うほどの巨額の収入が大通詞にまだあった。
とは全く思えない程、時代が流れていたかも知れない。それでも通詞社会トップの4人
しかいない大通詞の1人だったから、堀川門十郎は立派な屋敷住まいであったろう。と
思われる。大通詞は又、近在の郷に 別宅を持っていた例もある。それ程富裕であった
ことは間違いない事実だ。
0030名無しさん
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2022/06/02(木) 19:01:17.64ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。185、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 彼は1793年(寛政5年)に、島津重豪が始めた書誌編纂事業の一つの「成形図説」の
編集にも関わっていた。とみられている(島津重豪編)。「成形図説」とは、いわば、
日本版の百科全書である。ルソー等のフランス啓蒙思想は、世の万物すべてに光を当て
る百科全書の編纂を流行させ、探検家や旅行家は動植物地誌のすべてを記録するのが、
当時の彼の習わしだった。そこに出喰わしたのであろう。実は日本人の頭には、そうし
た博物学とか、知見や知識を高める欲はあっても、海外に出てまで、貪欲に種や知見を
持って帰る、という様な環境は無かった。その点海外特に欧州には貪欲に横柄にあった
。そこで大航海時代を迎えたのだが、これが実は、大きく日本を苦しめている。一般的
にゴールドラッシュとは、1848年頃にアメリカ合衆国のカリフォルニア州で起きたカリ
フォルニア・ゴールドラッシュを指すのだが。この一連のゴールドラッシュでは、世界
の流通量を急増させて、フランス銀行の銀行券の発券高は1850年の4億5千万フランか
ら、一気に1870年に15億5千万フランとなった。プロイセンでも1850年、1837万のタ
ーラーだったのが1870年には、1億6326ターラーに達した。金本位制の中で、金庫室の
金準備の増加は、各国の中央銀行を勢いづかせ貸付を増大させた。結果産業を促進した
のは間違いない事実である。イングランド銀行でも、1847年、830万ポンドが 1852年に
2180万ポンドに一気に増えた。この中央銀行の増加率が5倍近く跳ね上がるのだが、実
は更に遡って、実はそれよりずっーと先にスペインやイタリアでそれらが起こっていた
。1690年のブラジル・ゴールドラッシュで、アマゾン奥地に多くの採掘人(ガリンペイ
ロ)が流入し、2000年代以降でも、奥地の金鉱では一攫千金を夢見て過酷な生活・労働
環境下で働く金鉱採掘人がいる程だ。
0031名無しさん
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2022/06/02(木) 19:06:22.44ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。186、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 が、その魁になったのは、メキシコのシルバーラッシュとも言えるものだった。実は
南米には「サンミゲル=デ=アジェンデ:王の道」という シルバーラッシュで沸いた
都市がある。別名で銀の道とも言われる交通の要衝で、サカテカスやグアナファトの銀
はメキシコシティに集まり、そこからアカプルコやベラクルスを通って、多くはスペイ
ンやイタリアに運びこまれ、メキシコ銀は銀貨として全世界の過半を産出して流通して
いったのである。日本の石見銀山でも、かなり多くの銀を輸出した。しかしその多くは
中国皇帝の手に渡ってから世界に出て行った。貿易や町人の税として徴収したからだ。
それでも、全世界で銀が基軸通貨となり流通貿易の標準貨幣となり、中国では一条鞭法
や地丁銀税が成立した。石見銀山の歴史をWEBで覗くと、文献史料に、石見(いわみ
)銀山は1527年に発見され、それ以後に本格的に開発が開始された。とある。14世紀初
め頃に地表に露出した自然銀を採掘したとの伝承もあって 明確ではない。とされる。
銀鉱山の開発を開始したのは、当時、日本最大の貿易港であった博多の豪商、神屋寿禎
(かみやじゅてい)で、寿禎は、中国・朝鮮への主要な輸出品であった銅を入手する為
に、石見地方の東隣に当たる出雲地方に向けて、日本海の沿岸を航行していた際に、南
の山に霊光を発見して銀山の存在を知ったとされている。つまりすでに海に向かって輝
いていた。というのだ。開発当初寿禎は、銀山から直線距離にして約6km西方に当たる
鞆ケ浦の港へと銀鉱石を搬出し、本拠地があった博多へと船で送り出していた。これに
よって、鞆ケ浦には多くの家屋が建ち並び、繁栄したと伝えられている。また、文献に
よれば、この頃、石見銀山近隣の日本海沿岸には、この銀を求め中国や朝鮮の船が来航
したことが知られている。という。多くの文献では、この銀で銅を買った様だ。
0032名無しさん
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2022/06/02(木) 19:12:58.09ID:K0e9S4dp0
 ジャパン レボリューション。187、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 実は日本では仏具に銅の加工が盛んで流通も、銅銭や銅像と錺(かざり)職人は銅に
よる雨どいや屋根吹きが日本の風潮だった。対して、銀は中国には必要不可欠だった。
封建制度で土地の有力者は銀でしか、税を収められなかったからだ。更に海外貿易にも
銀が主流だったのである。神屋寿禎が銀山を開発した16世紀前半は、石見地方を、戦国
大名の守護職として支配していたのは大内氏であった。大内氏は、石見地方の西の周防
(すおう)・長門(ながと)の地方を中心に勢力を誇っていた。日本国内でも、有数の
大名で、博多を拠点として中国・朝鮮と貿易を行ったことでも知られる。富裕な大名で
、神屋寿禎は大内氏の保護の下に活躍した豪商となり、中国貿易とも深く関わっていた
。こうして鉱石の搬出と鞆ケ浦(ともがうら)の繁栄が起こっていた。石見銀山は、16
世紀の日本において銀製錬及び精錬の技術的先進地ではあったが、金も含有する土壌に
銀しか精練出来なかった。記録によると、既に1540年代には、石見銀山に技術力の高い
製錬及び精錬技術者の職人組織があり、国内の、他の鉱山で採取された鉱石の鑑定まで
行われていたことが知られる。1533年に、神屋寿禎は博多や日田から石見銀山へ、九州
から技術者を送り込み、朝鮮から伝来したとされる灰吹法の技術を用いて現地で銀精錬
を行わせるようにした。このことによって銀の生産量が飛躍的に増大し、1530年代後半
には、生産した銀の一部を成す大内氏への毎年の献上銀が、16kgから80kgへと急増した
ことが記録されている。つまり、細々と銀は産出していた中で、新たに効率のいい灰吹
法を用いて、生産性を上げたと言う事になる。しかし、大内氏は石見銀山とその周辺の
地域に、代官を派遣して支配していた。が、さらにその外側の地域には、大内氏の指揮
下にはあるものの、自立性の強い封建領主たちが存在していた。彼等はしばしば独自の
政治的・軍事的行動を起こす存在でもあった。1530年代末から1540年代にかけて、彼等
は大内氏の領有の銀山支配をたびたび脅かし、石見銀山の中心にある山吹城(やまぶき
じょう)をはじめ、多くの護り城を作っている。
0033名無しさん
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2022/06/12(日) 22:15:40.31ID:p7uzU+uT0
 ジャパン レボリューション。188、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 石見銀山を護る為に その周辺にある城は、中心にある山吹城(やまぶきじょう)を
始め、矢滝城(やたきじょう)・矢筈城(やはずじょう)・石見城(いわみじょう)な
どがある。彼らの動きからも、銀山を守備するための軍事施設であったとされる。実は
大内氏は盛んに日朝貿易はしたが日明貿易の権利を持たなかった。当時に、明王朝は、
強固な中華思想に朝貢貿易しか認識はない。彼らに国と言う物や国の領土と言う概念が
なく、オアシス国家群に盗賊行為の取引で喰って来たように、自分達の領土は、城内で
あり続け、城外は異国で、城の維持費を集金できれば良かったのである。すなわち冊封
の周辺諸民族の王が、大明皇帝に朝貢する形式の貿易のみしか認めなかった。勘合貿易
は、室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢し
、明皇帝の頒賜物を日本に持ち帰るのが建前であった。此の為毎年の謁見使節のみの、
貿易となった。当然南北朝以来、南方がその権利を持ち維持していたのが、太宰府政庁
のみで、そうした事は博多商人にしか存在していなかったのだ。その為、賄賂と武力に
よって、菊池を大友と落とし、大友と戦い太宰府の長官に、やっと納まったのわけなの
だが、1550年代に内紛によって大内氏が滅亡すると、石見地方の東方の出雲(いずも)
地方を本拠地とする戦国大名尼子(あまご)氏が、石見銀山に侵入し、大内氏に代わっ
て銀山の支配権を取り戻した。実は尼子氏は字の示す様に、出雲の神官の出で、代々に
渡り出雲守護代を務めた。そこに平安終期に朝廷の使いの京極氏の一族が縁戚として、
乗っ取っていた。それでも細々と日本において丹羽氏と並ぶ、鉱物精製の一族であった
。こうして尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れの京極氏の分家となり、京極尼子家とも呼
ばれた。家紋の平四つ目結(ひらよつめゆい)は、別名を「鹿子絞り」「纐纈(こうけ
ち)」と実は銅や鉄の和釘を示し一つ目結は『釘抜紋』を献上若しくは量産する者の紋
であった。
0034名無しさん
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2022/06/12(日) 22:53:59.53ID:p7uzU+uT0
 ジャパン レボリューション。189、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 京極氏系は、南北朝時代の婆娑羅(バサラ)大名として有名で、初期の室町幕府での
影響力を持つ佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)
に居住していた時に、名字を尼子と称した。としている。バサラ大名はその名の通り、
仏教外仏教、道祖神ケン教の信者で、鎌倉時代末期の、南北朝時代の武将に佐々木道誉
(ささきどうよ)は、派手な格好で身分の上下をせず振舞う事で「婆娑羅(ばさら)」
と呼称されていた。その風貌や生き様から「婆娑羅大名」と呼ばれ、佐々木も型破りな
人物であり、香の分野で伝説を残した。「太平記」三十九巻によれば 1366年に、大原野
の勝持寺花見の宴で、ひと抱えもある香木を、焚き上げて、その香りが風に乗って辺り
一面に立ち込め、あたかも極楽浄土(浮香世界)にいるようであった、と、記されてい
る。通常は、香木は高価な物で「馬尾蚊足(ばびぶんそく)」とされ、貴重な香木は馬
の尻尾や蚊の足のごとく細かく刻んで使用した。それほど少量で香りを楽しむこと香木
で、香木をひと抱え分も、一度に焚き上げる、かなりの桁外れの行為をした。佐々木は
実は、政敵の斯波高経(しばたかつね)の花見を開くことに、同じ日に道誉も豪華絢爛
な別の花見の会を開いた。京中文化人を自身の花見の会に誘い、斯波高経の花見に参加
させないように対抗したのだ。政敵に対して香木を一度に焚き上げ、斯波高経の面子を
潰す。此れを行った。しかしは、礼節を守り、仏こそ違えど、文芸や 立花華道、茶道
、香道、笛、猿楽と、文化を保護した文化人で、これらの発展に大きく寄与した。と言
われる。香の世界も、佐々木道誉の香木コレクション約180種類は、のちの室町幕府
八代将軍足利義政に引き継がれ、香道の成立に大きく貢献をしたといわれる。徳川家康
さえ及ばず。と悔やんでいる。この頃は転換期の社会風潮を体現して「ばさら大名」が
現われ、新興勢力とされるのだが実は違っていて、そもそもが武士集団そのものが新興
集団で、個々の田舎では仏師やら職人が、寺を護り、その技術の伝承を行っていた。
0035名無しさん
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2022/06/12(日) 22:54:23.08ID:p7uzU+uT0
 ジャパン レボリューション。190、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 足利尊氏時代に執事として仕えた高師直(こうのもろなお)、美濃の土岐頼遠(とき
よりとお)、近江の佐々木道誉(ささきどうよ)など、そのバサラ大名の三傑とされる
。足利政権内に取り入り権勢を誇った高師直でさえ、足利尊氏の呼びかけに応じただけ
の職人弟子だった。奢侈を極めた生活をし、他の武将や貴族の婦人に手を出すなど、目
に余る行ないが多い人物で「都の天皇や院は邪魔な存在に過ぎないから、木像か金の像
でも作って飾り、生きている方は配流してしまえばいい。」と放言していた程である。
そんな悪行三昧を尽くした師直は、最後には、幕府内で対立していた尊氏の弟・直義に
粛清されてしまう。土岐頼遠は下克上のような形で美濃の守護大名にのし上がった武将
で、都での傍若無人ぶりが大事件に発展した。今比叡の馬場で笠懸(かさがけ=流鏑馬
)をした後、大酒を飲み帰る途中、光厳上皇の牛車と出会い、下馬をして道を譲るべき
にも、倣慢に譲らず、上皇が道を譲る行為に振舞った。「これなるは院の御幸なるぞ」
との声に、最後は「院と言ったか、犬と言ったか。犬ならば射てやろう。」と答え矢を
射掛けてしまう。足利政権に、お墨付きを与えた重要な存在である光厳上皇に対しての
この暴挙だけに、これを開いた直義は激怒した。頼遠を斬首に処し最後に佐々木道誉も
先の2人と同じように乱暴狼籍を働いたとされ、天台宗の門跡寺院であった妙法院を焼
き討ちにしたのである。門跡寺院は、皇族や貴族が門主となるという非常に格式の高い
寺だった為に、発端は些細ないざこざであったが、この事件に、本山の比叡山延暦寺が
怒り、僧兵のカで圧力をかけ、幕府に厳罰を求めた。将軍尊氏もこれに弱って、一端は
出羽国への配流としたが、後に上総国への配流に減刑し、道誉は形の上ではこれに従う
、しかし、実際は華やかな行列を連ねて近江あたりまで行き、その後はどこかへ雲隠れ
してしまった。
0036名無しさん
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2022/06/12(日) 22:54:46.13ID:p7uzU+uT0
 ジャパン レボリューション。191、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 比叡山の宗教権力は煙たい存在であったため、道誉の行ないを内心支持していた商人
もあり、厳罰に処すつもりはなかった。という。同じ「ばさら」の行為で、道誉の場合
は先の2人と違い、私利私欲の要素が少なく、むしろ情勢に適ったものだった。という
視点もある。幕府としても、足利政権を支える道誉を守りたかった。道誉は、この後も
世間の耳目を集める大蕩尽会(だいとうじんえ)を開くなど、派手な「ばさら」的行為
を繰り返し、それらは単に混乱をもたらすような反社会的行為ではなく、むしろ時代の
盛り上げ、気運を体現するもので、古い権力に抑庄された庶民にとって、経済を活性し
痛快をもたらす、質の高い「ばさら」だった。そもそも武士という存在は、実力はあり
ながらも、公家の下に置かれ、野蛮な存在として扱われていた。平清盛ら平氏が貴族化
し、源頼朝の鎌倉政権が京の公家社会と距離を置いていたことからも、その状態は続い
ていた。平清盛が、安芸乃島、すなわち宮島に水上宮社を置いて、盛大に式典を行い、
仏教徒に銅銭を集めさせ、開所式典をさせたのは、神道の宮家や仏教の寺社が中か悪く
さらに、権力が巨大だったからだ。各地に神領や寺社領をもって、寄進をもって巨大に
なって税と同じ寸志・香典・布施を強要していたのである。南北朝から室町政権になり
武士が京で暮らし、その実力を背景に上流階層に交わる中で、無力な公家の差配に従う
のではなく、庶民の価値観を押し振舞うようになり、公家から見れば無作法で「ばさら
」と非難するようになった。この時乱暴狼籍に留まるような場合は、公家の嘆くような
忌まわしき振舞いであった。がしかし、道誉のような「ばさら」は、むしろ無力であり
ながら強欲だった公家や寺社という旧権力を嫌い、対する反骨精神、実力を持った武士
たち、の様相が社会のために、人々が求めた姿だった。物質面では「セレブ」と称する
ような、奢侈な文化権力者が、庶民を救う。という姿の一つだった。この時代石見銀山
などが見つかり、海外との取引が出来た。平氏が銅銭を輸入し、日本経済を建てようと
した流れの中にあったのである。
0037名無しさん
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2022/06/13(月) 08:54:10.05ID:7xGKIK000
 ジャパン レボリューション。192、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 銀山の尼子氏の支配は約5年間継続したが、1562年には石見地方の南に隣接する安芸
(あき)地方の大名毛利(もうり)氏が争乱状態にあった石見地方を軍事的に制圧し、
石見銀山の支配権を確立した。このような戦国大名の石見銀山を巡る争奪の過程におい
て、銀山の支配権を奪取する。この時重要な軍事的役割を果たしたのが矢筈城や山吹城
であった。これらの城を巡って激しい攻防が繰り返された。この戦闘の結果、1561年に
毛利軍が銀山地区に侵入し、これを手中に収めた。銀山を制圧すると、毛利氏は1562年
に天皇・室町(むろまち)幕府などに対して、石見銀山を寄進し、生産した銀の一部を
献上するとともに、自らも生産した銀の多くを軍事費として用いたのである。毛利氏は
、石見地方を制圧した後に、石見銀山から西へ、直線距離にして約9kmの位置に当たる
温泉津(ゆのつ)や沖泊(おきどまり)に家臣を置き、石見銀山とその周辺地域の支配
を行った。これを契機として、16世紀後半には銀山から、中継地である西田の町を経由
して温泉津・沖泊に至る街道が整備された。銀の搬出のみならず、銀山で必要とされる
消費物資・生産用物資の搬入が行われるようになったのだ。温泉津は温泉地である。と
ともに、日本海沿岸の船舶交通の寄港地としても有名な場所となった。16世紀後半には
既に集落が存在し、17世紀初頭には宿泊施設・商業施設を含む繁華な町に発展していた
。沖泊の港は温泉津港の北側に当たり、16世紀後半には鞆ケ浦に代わって銀の搬出港と
なりこの頃、温泉津で、大量の米が陸揚げされ、伝馬を使って銀山へと運ばれた。銀山
が盛えて人が多く従事し分業化も進んだからだ。沖泊港の南側に位置する岬の先端には
、1570年に城が築かれた。この城は沖泊を含め温泉津湾の全体を守備して、銀山の物資
搬出入を維持する上で軍事的機能を果たしていく。
0038名無しさん
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2022/06/13(月) 09:17:09.73ID:7xGKIK000
ジャパン レボリューション。193、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 この石見銀山の銀採掘が本格化したのは16世紀だ。大陸から伝わった銀の精錬技術の
「灰吹法」によって、たくさんの銀が抽出できるようになった。そのことで、日本での
「世界に銀を輸出して利益を得る」というシルバーラッシュの時代を迎えた。これが、
戦国時代に反映した。銀山支配して戦国大名らが貿易を行っていた相手は、キリスト教
の布教と貿易のために来た宣教師達で、この銀から金の抽出も行われたと思われ、その
元のジパング伝説でやって来ていた。キリスト教や鉄砲をはじめ、洋服や食べ物などの
南蛮文化が花開いた。この銀を通貨とした貿易は、大きな一つのきっかけだった。ちな
みに、当時の産出量は、世界の銀の3分の1に相当する。ポルトガルの、古い世界地図
にも、石見の位置に「銀鉱山王国」という記載があるほど日本より欧州で有名になった
。「石見=銀」というイメージが、海を越えて広がっていた。私たちが今いる日本国は
、そんな銀山で働いていた人は、採掘を生業にする人々のみならず、吹大工と呼ばれる
職人技術者、銀を求める商人などが行き交い、当時銀山近郊には、ずっとおおきく賑わ
いをみせていた。この景観が、世界遺産として保護されたらしい。近年の端島、つまり
軍艦島の石炭鉱山の島も、世界一の密集都市で、東京の3倍の給与だったとされるから
鉱山従事者は、時の花形産業であり、短命が多かったが懐は豊かであったといえるだろ
う。1580年代に、戦国大名毛利氏は戦乱期の日本に、統一を推進した豊臣氏の支配下に
入り終焉に向かった。
0039名無しさん
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2022/06/13(月) 09:17:51.93ID:7xGKIK000
石見銀山は、毛利氏の支配を基礎としつつも、豊臣氏の支配の方
が大きくその成果は、大阪城の蔵に金が蓄えらた。恐らくは、この銀からこの金の抽出
技法も伝えられて、金として貯まった。1590年代末頃に銀山、及び温泉津付近の地域で
、採掘・製錬及び精錬・店舗営業・輸送・漁業などの諸活動に対する課税が銀で行われ
た。地域社会の滞留銀を、毛利氏が吸収するべく課税制度が確立したのだ。その課税は
、1600年に年間銀 約3,680kgに達した。その後豊臣氏は徳川家康にに内戦に破れ、徳川
氏は政権を掌握し、国内の金銀鉱山を接収した。結果、石見銀山支配も徳川氏へと移行
し江戸幕府の物となった。内乱時代の終息と共に銀山支配が変わった。
0040名無しさん
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2022/06/13(月) 10:38:38.33ID:7xGKIK000
 ジャパン レボリューション。194、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 石見銀山は、その後は、毛利氏の支配を基礎としつつも、豊臣氏の支配の方が大きく
、その成果は、大阪城の蔵に金が蓄えらた。恐らくは、この銀からこの金の抽出技法も
伝えられて、金として貯まった。1590年代末頃に銀山、及び温泉津付近の地域で、採掘
・製錬及び精錬・店舗営業・輸送・漁業などの 諸活動に対する課税が銀で行われた。
地域社会の滞留銀を、毛利氏が吸収するべく課税制度が確立したのだ。その課税は1600
年に年間銀 約3,680kgに達した。その後豊臣氏は徳川家康にに内戦に破れ、徳川氏は、
政権を掌握し、国内の金銀鉱山を接収した。結果、石見銀山支配も徳川氏へと移行し、
江戸幕府の物となった。内乱時代の終息と共に銀山支配が変わった。しかし、この頃は
既に、多数の鉱山が見つけられ、採掘されては、そのほとんど掘り尽くされ、あとは、
硬い岩盤とか、地下水が貯まるところ、或いは崩れやすい所や 深く切り下がる所とか
しか残されてなかった。そこで日本は西洋の知識を欲した。これが百科事典作成に繋が
っている。その流れは、シンガポール建国の父と称されるスタンフォード・ラッフルズ
が、「JAVA」(ジャワ)についての貴重な百科全書を残した事で名声を得た事に端を発
している。後年、シーボルトの日本滞在の真の目的も又、日本についての、百科全書を
まとめることにあったとされる。「解体新書」のプロジェクトも又、この流れの中に、
位置づけられる。オランダを通じて、このような事情に通じていた島津重豪は自力で、
この日本最初の百科全書つくりに挑んだのである。それが全70巻とも言われる。「成形
図説」だ。戦果の火事により大半が焼失したが「成形図説」の編纂である。当時一流の
識者を呼び集め、世界に通じるものしようと、文章には オランダ語訳をつけていた。
そのために、大通詞だった、松村安之丞を、薩摩藩に召し抱えている。当時の通詞社会
で吉雄幸作と並び立つ英傑と言われた人物である。このヘッドハンティング、日本初の
百科全書編纂の大プロジェクトと、島津重豪は藩財政の危機は十分認識していながらも
、やりたいことやらねばならない。日本国の為には。そんな性格だったのではないか。
0041名無しさん
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2022/06/13(月) 10:47:41.89ID:7xGKIK000
 ジャパン レボリューション。195、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 開明的な君主として その事績の数々は幕末に雄藩として 日本を導いてゆく薩摩藩
を育て上げた。そんな島津重豪はと言えるが、同時に借財も天文学的に積みあがった。
そういう意味では、上杉鷹山の徹底的な倹約とは違う。ただ、散財するだけではなく、
晩年には、調所広郷を起用し財政改革を果たし、常に帳尻は、合わせたいと考えていた
。松村が薩摩に招聘された後、長崎在住大通詞として島津重豪が目をかけた堀川門十郎
がそこにいた。「成形図説」の 編纂が始まる寛政5年の、1年前にヘンミイが長崎に
着任した。島津重豪はヘンミイと親交を深めている。「成形図説」編纂は、堀川門十郎
が、ヘンミイに助言を求めることも多かったと推測される。西洋の百科全書に並び立つ
「成形図説」するという意気込みが重豪にあった。名村恵助は、小通詞末席という中堅
通詞である。「大通詞−小通詞−小通詞並−小通詞末席−稽古通詞」(阿蘭陀商館物語
)という通詞の序列では、中堅から軽輩のあたりで、これまでの文献やこの物語で名村
恵助を、小通詞末席と扱っている。2006年長崎の歴史研究家の原田氏が、画期的な論考
『名村家の人々』を、長崎の藤木文庫が発行した。「崎陽」という雑誌にて発表された
論考の、それに準拠してこの先を展開していきたい。名村家の分限帳(職歴簿のような
もの)を詳細に調査したところ、名村恵助は1785年に(天明5年)に隠居し 通詞の職を
養子に譲った。彼によれば「1785年3月直三郎(惠助の別名)は、テイツイングたちに
内通したとの理由で、阿蘭陀通詞たちによって毒殺された。」と当時の出島のオランダ
人たちが信じていた。と、オランダの日本研究家が発表した。だがこれは間違いであり
、惠助は隠居したので、オランダ商館に顔を見せられなくなったが、それを、オランダ
人たちが仲間に毒殺されたと思い込んだらしい。というのが真実である。ティチングと
は、1779年、1781年、1784年と3回に、わたって来日して商館長を務めた人物である。
島津重豪や桂川甫周などの 当時の一流の人々との親交も幅広く、後に ロンドンで「
日本風俗図誌」を刊行して、当時、有数の日本通として知られた人である。
0042名無しさん
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2022/06/13(月) 10:59:38.47ID:7xGKIK000
 ジャパン レボリューション。196、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 当時は、世界中で、百科全書派の熱が席巻していた時代である。出島に来たオランダ
人は、オランダ人だけでなくヨーロッパ各地から、オランダ人と称して出島へやって来
てた。ティチングは、そんな人を集めそれぞれの極東への、日本についての百科全書を
編纂しよう。という野心を持っていた。その流れの中で、シーボルトもこの後の1823年
(文政6年)来日した。彼らは動植物や地誌の情報を積極的に集めた。だが日本の情報
の中で、国防上の機密である地図などの流出を幕府は極端に恐れ、厳重に禁じた。それ
を承知で、シーボルトは、密かに資料を収集した。彼を最高の知識人と崇める人々は、
喜んで求められるものを提供した。それが幕府の密偵の働きで江戸で明るみに出て大量
の処分者を出した。シーボルト事件である。ティチングも、事情は全く同じであった。
この時資料収集の手足となったのが、名村恵助のようだ。その名村を危なっかしい動き
と、通詞社会は判断した。彼を密かに隠居に追い込んで、忽然と顔を見せなくなったの
である。「毒殺された」と出島のオランダ人たちは思い込むほどに。出島のオランダ人
たちは 終始監視の目に晒されていた環境で、情報を得るのも得策でなく、自分で判断
するしかなかった。ドゥーフで紹介したように、ドゥーフの自伝に(spy)という言葉が
7回も登場するのだが、彼らには、通詞そのものがスパイの役目を果たしている。と、
理解して、決して心を許さなかったのだ。監視されていたのは何もオランダ人だけでは
ない。通詞にも 通詞目付がいて、通詞を監視しているし、長崎奉行所さえも江戸から
の密偵や大目付が目を光らせている。そういう中で忽然と姿を消した名村恵助を「毒殺
」と判断したのは、いかにも、密謀と暗殺の歴史が渦巻く ヨーロッパで揉まれたオラ
ンダ人らしい結論とも言える。崎陽区という 明るい響きの別称を持つエキゾチックな
国際都市の長崎に、こうした陰湿な闇の世界もあったのだ。名村恵助が隠居して7年目
に、ヘンミイが、商館長として赴任してきた。
0043名無しさん
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2022/06/13(月) 11:54:54.72ID:7xGKIK000
 ジャパン レボリューション。197、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 名村恵助が隠居して7年目に、ヘンミイが、商館長として赴任してくると、すぐに 
島津重豪との親交が始まった。やがて二人の間で、それぞれのニーズを巡って密やかな
、盟約が生まれる。島津重豪側には、堀川門十郎が、その意をヘンミイに伝えるのだが
、大通詞という立場であって、いつも自由に商館長に会える訳ではない。出島の前の、
小高い13の丘には長崎奉行所西役所が聳えているから、そこからも 出入りは丸見え
であった。そこで堀は、隠居していた名村恵助に、目を付けたと思える。名村恵助は、
養子が跡を継いだ。といっても 通詞社会の一番下の稽古通詞である。経済的には裕福
とは言えなかった。小遣い稼ぎに、堀の使い番にでもなって稼ごうかといった軽い気持
ちで乗ったのだろう。堀川は寛政9〜10年頃 既に薩摩藩に召し抱えられていた可能性も
ある。成形図説の編纂の進捗もあったろう。そうすると、長崎と薩摩を往来していた。
かも知れない。そうだとすると長崎で自由に動ける手足、つまり名村恵助の存在が便利
であったはずだ。そして、さらに堀川と、名村は、同じ町内の忠蔵に目を付けたのも、
当然だろう。忠蔵はヘンミイの部屋働きであったので毎日出島に出勤するのだが、出島
に入った人間は、出島を出る時は門で待ち構えている探り番のチェックを受ける。探り
棒というもので、袂や懐を探られるのである。原田博二氏資料にある忠蔵の判決文には
、「横文字 其外カピタンより恵助江之 礼物等取次遣し」と、買いてあるのである。
これは、【島津重豪⇔堀川門十郎⇔名村恵助⇔忠蔵⇔ヘンミイ】の流れで、密約が形成
されて行っていたのがわかる文章である。忠蔵は、ヘンミイから預かったオランダ語の
密書(メモ書きていどのもの)を、名村や堀からの入れ知恵で、探り番を躱して今籠町
へ持ち出し。そこで名村に渡し、名村は文面を確かめて堀へ渡したものと思える。重豪
からの返事は、逆の流れでヘンミイへ届くことになる。しかし、1797年(寛政8年)に
、この密謀が大きく前進する出来事が起こった。
0044名無しさん
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2022/06/13(月) 11:55:20.90ID:7xGKIK000
 ジャパン レボリューション。198、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 1796年、ナポレオン戦争によって本国オランダが破れ、ネーデルランドの移行期に入
ったのために、長崎出島には、1隻のオランダ船も来なかったのだ。が、1797年7月に
2年振りに現れたオランダ船は、実はアメリカ船を偽装した傭船であり、船長がアメリ
カ人の、あのスチュワートだったのである。スチュワートを迎えたヘンミイは天祐だろ
思ったに違いない。オランダ人船長と違い、スチュワートはオランダ東インド会社に何
の忠誠心も持っていない事は知っていたのだから。彼と、直接会って話をすれば、儲け
話に乗ってくる冒険野郎とも思っていた。冒険心に満ちた男だ。と気が付いていたに違
いない。こうして、島津重豪とヘンミイの主体の「抜け荷プロジェクト」は、急速に、
具体化に進んでいく。翌年の1798年(寛政10年)もう一度、スチュワートを傭船として
雇い、長崎に来る途上に薩摩沖の海上で瀬取りをさせ、(仲買)を行うという計画だ。
ヘンミイは、11月末にバタビア(ジャカルタ)へ戻るスチュワートに、「来年も、この
船長を傭船として契約するように」と、バタビアのオランダ東インド会社に、依頼する
手紙を託したのである。彼等は気が付いていないが、そのさなかの1795年(寛政7年)
の夏に近藤重蔵が長崎に着任し、探索を始め出している。近藤重蔵は当初、唐人へは、
外国事情調査と称し、また オランダ人へは西洋の植物や産物の調査と称して 唐人館
や出島に出入りし、実際に、その優秀な頭脳を駆使して何冊もの書物を編纂してゆくの
であった。誰しもが、百科全書編纂が目的と聞けば、オランダ人さえ警戒を緩めさせて
いた。であろう。そのうちに、近藤重蔵は それらの書物の編纂を進めてオランダ人の
信頼を得て、徐々に本来の目的の探索にかかっていた。おそらくは、「西洋の本草や、
風俗を聞く。」と称してヘンミイやラス、その他のオランダ人の部屋にも出入りしたの
ではないか。…そして、あらかじめ見当をつけたのが、今篭町のトライアングルでは、
なかったろうか。
0045名無しさん
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2022/06/13(月) 11:55:43.63ID:7xGKIK000
 ジャパン レボリューション。199、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 探索にあたり、まず目を付けたのが堀川門十郎の動きであった。そこから、名村恵助
と忠蔵の繋がりが浮かび上がってくる。そして動かぬ証拠を、ある日掴んだと思われる
。彼が発見した決定的な証拠とは、何だったのか?それは闇に葬られて決して表には出
てこない。が、その情報を基に、ヘンミイの「参府旅行中」に厳重に監視の目が注がれ
ていた事は、彼が病死したらすぐに行李の中を検(あらた)めて名村が寄越した「海中
にて、中買」の手紙が発見されたことでもわかる。こうして近藤重蔵の役目は終わった
。1797年、(寛政9年)の暮、近藤重蔵は長崎奉行所の出役を解かれ、江戸へ戻った。
栄転であるが呼び戻したのは、長崎奉行を、その年の2月に交代して江戸へ戻っていた
前奉行の中川忠英(ただてる)であった。江戸へ戻った近藤重蔵は、この時志願して、
蝦夷地の探検を引き受けている。千島列島に、ロシアが忍び寄ってきていたからだった
。つまり志願と言うよりは、幕府が人選した通訳の出来る奴。として白羽の矢を立てた
のだろう。と推測でる。オランダ語を翻訳し、他の国の言葉も多少知っていたからだろ
う。そして翌1798年(寛政10年)に、択捉島に「大日本 恵土呂府」の碑を立てて日本
史に名を残すことになった。だがこの時の、近藤重蔵が掴んだ情報は 余りにも巨大過
ぎるものだった。現将軍家斉の岳父、自らが岳父になってはや10年。しかも家斉も重豪
も壮健で早晩引退の気配もない。揺るぎなき堅牢の時期だ。国禁の抜け荷を、指揮して
いる。とは口が裂けても公にできないことだった。島津重豪には、指一本触れられない
。またヘンミイにも 手出しができない。神君家康公の前に「ゴンゲンサマ」とひれ伏
し、(ドゥーフが自伝で紹介した、家康が長崎で呼ばれている表現)その幕府からの、
御朱印状を貰っている存在である。アンタッチャブルすぎるのだ。過去にも、商館長が
抜け荷に関係した例はある。が、商館長そのものへは、表立って手を出したことはない
。さてどうするか?。それはオランダ人が、名村恵助がそうされたと思い込んだことで
、すなわち毒殺によるヘンミイの排除ではなかったろうか?・・・と推測できる。
0046名無しさん
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2022/06/13(月) 13:42:08.91ID:7xGKIK000
 ジャパン レボリューション。200、事件〜〜。 (東南アジアの日本)

 1797年(寛政9年)夏、スチュワートが、オランダの傭船としてイライザオブニュー
ヨーク号で、長崎出島に入港した。彼の滞在は数か月に及んだ。彼を見込んだヘンミイ
の判断では、スチュワートが「海中にて仲買い」役を引き受けることになって、抜け荷
計画は急速に具体化して行った。忠蔵と名村恵助、堀川門十郎のトライアングルの動き
が、活発化したのも、この2年間のオランダ船の無寄港常態にもあった。出島は言わば
各藩の大名の出店と、輸入品を持ちこむオランダ船や朱印船の舶来品のバザール状態で
成り立っている。いわば魚市場の魚の仕入れが無い状態では、成り立たないのだ。舶来
の品々にバイヤーたる出店が値を付けて買い取ってこそ成り立つのである。今では、瀬
取りと言われる「海中にて仲買い」=「浜買い」=市場外購買=直接取引=抜け荷は、
いまでこそアマゾンの直接物流を許しているが、当時から近世では、違法取引=ご法度
であった。つまりそこそこの卸しや問屋を通じ 広く薄く平等な取引益をもって潤い、
そうする事で、同じように広く薄く平等な税で 税収を得るのが江戸幕府の行政だった
。従って藩体制も同じで、藩内藩外の貿易にも同じ規制と特権交付を敷いて抜け荷規制
を敷いていたのである。これらに密かに探索して密謀の全体図と証拠を掴む近藤重蔵。
であったのだ。この頃からヘンミイの体調が悪化する。下痢嘔吐が続き、体力が弱って
ゆくのである。翌年の1798年(寛政10年)の正月には、商館長最大のイベント江戸参府
が待っている。将軍に謁見する日がいつもの様に近づくのだ。だがヘンミイは体調不良
を理由に夏までの延期を願い出ている。だが幕閣は許さない。予定通りに、上京しろ。
という返事である。既にその頃、近藤重蔵は栄転していて長崎を離れていた。こうして
、1797年は暮れ、翌年の正月、ヘンミイは 江戸へ出発した。その留守の3月出島では
、大火に襲われている。大変の建物が焼失する。その不吉な知らせは、いつヘンミイに
届いただろうか。その年にヘンミイは 将軍謁見の帰途に、掛川で帰らぬ人となった。
享年50歳であった。
0047名無しさん
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2022/06/17(金) 13:51:04.72ID:/8ygoT4r0
 ジャパン レボリューション。201、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 火災は、人類が火を操るようになって以来、常に起き続けている。そして落雷による
火災や、火山爆発による火災もたくさんある。ただ、火事が多すぎて正確なことが今だ
わかっていないのが現状である。記録に残っている長崎の火災の事を調べてみると意外
な事実に突き当たる。長崎の場合、都市の進化が 火事や災害のたびごとに進んでいく
。長崎の歴史を調べていくにはその事を留意していかないと、解らなくなる歴史があっ
。長崎の愛宕神社は、最初の防災の神様だろう。愛宕山の頂上にある愛宕神社の真裏に
「太郎坊神社」があり、これは天狗を祀っている。なぜ天狗かと言えば、天狗の持って
いる団扇の神通力で火事を吹き消した伝説からだ。が、実は山法師、山岳信仰の修験者
なり行者は、天狗とされていた。つまり神社は火事の時も、災害の避難所として設置さ
れていた。地震雷火事親父の、怖いものからの避難地で宿坊もあったのだろう。愛宕山
の太郎坊神社と共に本河内後部の貯水池の妙相禅寺の山の方に、秋葉大明神という鳥居
が立っている。この秋葉も又火災・火除けのまじない場所だ。これの設置は、大明神。
即ち、祭りや商売を通しての、寄付や寄贈や支援金を集めて池を作る事をした場所だっ
たのであろう。東京の秋葉原も又現実的な、火除地として設置された広大な空き地であ
ったと言う。火除けの秋葉大権現を勧進した。という地名である。防災の神様は、この
救済の為の愛宕の地名と、対策の為の秋葉原の貯め池地があった。長崎で1663年「寛文
長崎大火」とが起こった。寛文3年(1663年)03月08日の巳の刻(午前10時から正午)に、
筑後町で火災が発生。その火は北風に煽られ町へと広がっていき、長崎市中のほとんど
を焼き尽くす大火災となった。原因は浪人・樋口惣右衛門による放火で、惣右衛門が、
発狂して、自宅の2階の障子に火をつけ、さらに隣家の屋根に投げつけて発火させた。
とある。火事の後、焼け出された長崎住民の 復興の為、長崎奉行の島田守政は、幕府
から銀2000貫を借り、住民に20万円(現在の価値)ほどの金を配り(貸付)焼失した住宅の
復旧を図ったとされている。
0048名無しさん
垢版 |
2022/06/17(金) 15:09:47.77ID:/8ygoT4r0
 ジャパン レボリューション。202、事件〜〜。 (東南アジアの長崎火災)

 長崎樋口家は長崎市唯一の城下町であった深堀地区に現存する石塀のひとつとされる
。深堀地区は江戸時代まで佐賀鍋島藩の支藩である深堀領として栄え、今でも城下町の
名残を留める多くの石塀が残る地域であり、樋口家表門及び石塀は、深堀地区の町並み
景観を形成する重要な要素となっている。延長92.4m、高さ1.7m〜1.8m。で平成25年
(2013年)に 長崎市の景観重要建造物に指定された。江戸期に長崎港警備などを担っ
ていた佐賀藩深堀領で、家老職にあった樋口家は代々佐賀藩の当主の樋口家が領主とし
て持っていた。1600年代〜1900年前後にかけての文書類や器物類計1467点。中には佐賀
藩初代藩主鍋島勝茂が樋口家に領地を与えた際の書状など貴重な古文書が残されている
。樋口家(ひぐちけ)は、そもそも公家の堀河家の庶流にあたる華族である。とされ、
つまり遠い昔、天皇家の分家で侍になった家柄だった。通常は樋口惣右衛門との名では
、直江兼続の父であり、坂戸城主・長尾政景の家臣であった奥州武将である、樋口惣右
衛門が出て来る。この樋口惣右衛門は、素朴で実直な性格で、武士としての出世欲には
乏しく、戦場で武功を挙げようという考えはあまりなかった人物として取り上げられる
。しかし、坂戸城の薪炭奉行(台所や城中で使う 薪や薪を調達する)という役職から
は算勘の才ひとつでめきめきと頭角を現し、魚野川舟運、銀山経営、青苧売買といった
財政の舵取りを一手に任されるようになり、遂には家老にまで抜擢された。「御館の乱
」の際には兼続とともに、景勝側につき軍功を挙げ、越後東頸城郡直峰城主となった。
実はこの樋口惣右衛門というのは、我々は「樋口」「惣右衛門」と名字と名前と思って
いるが、違っていて、日本では氏名制度の慣習で「樋口」「惣右衛門」「〇〇」と所属
まで言う習わしから、最終的に現代風で言えば「樋口惣右衛門」「兼続」と言う氏名に
なる。大河ドラマ「天地人」の主人公は、言わずと知れた直江兼続となっているが、彼
正式名称は樋口惣右衛門・兼続であり弟の樋口惣右衛門・実頼が、大国家に養子で継い
で大国実頼になっている。
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