人殺しゲームが蔓延する理由

――グローバルで売れる大作ゲームが増えた弊害として、人殺しゲームばかりになりました。

それは少し極端な意見だと思います。ビデオゲームに限らず「ゲーム」というものの根底には「勝ち負け」があります。
じゃんけんやトランプ、将棋、競技スポーツに至るまで、勝者と敗者に分かれるのが基本です。
オリンピックだって国家レベルで戦うゲームとしての側面があります。
それらをデジタルで再現したビデオゲームも同じです。勝負する、敵を倒すということでカタルシスを得る。その結果として「人殺しゲーム」が多くなったという実情には、忸怩(じくじ)たる思いがありますが。

ビデオゲームの初期のものは、テニスゲームや、攻撃してくる宇宙船をただ撃つシューティングでした。
これらが登場した頃のコンピュータは、処理能力が低く、単純なアクションしか表現できなかったのです。
初期の映画と同じです。無声映画(サイレント)の時代、バスター・キートンやチャールズ・チャップリンは、アクションだけで映画を成立させていました。
言葉がなく、アクションだけというシンプルな構造は、言語や民族の壁を超えてグローバルに通用する。これに「競争」や「勝負」というわかりやすい原理が結び付いたのがビデオゲームです。

テクノロジーも進化してグラフィックも映画並みになり、顔のシワや、目の色、髪の毛などのディテールも表現できるようになりました。
キャラクターは記号ではなく、人種、民族、年齢、性差などの個性を持つようになりました。思想や宗教、世界観もグラフィックで伝えられるようになりました。
でも、ゲーム性の根本はずっと変わらない。向こうから攻撃してきた敵を倒す、という原理は変わっていないのです。そこから次のゲームのレベルに進むことがいまだにできていない。これは大きな課題だと思います。

次の新作「DEATH STRANDING」で、その課題に対するひとつの答えを出したいと思っています。

http://toyokeizai.net/articles/-/184406?page=2