私たちの生命は周囲の環境に応じて、さまざまな状態やはたらきをします。
ちょうど透明な水の入ったコップが周囲の物や光によって色が変化するようなものです。
「朱に交われば赤くなる」という言葉も、周囲の縁によって感応する私たちの生命のはたらきを指したものでありましょう。

信仰は〝信ずること〟であり、〝礼拝すること〟なのですから、
単に交わるとか尊敬する状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる結果や報いは、人生に大きな影響を与えることになります。

いいかえれば、信仰における礼拝は、その対象たる本尊に衆生の生命が強く感化されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈に働きかけ、影響を与えるものはないのです。

いかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、
その本尊や教えに感応して、次第にその人は濁った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。

たとえば「稻荷」と称してキツネを拝んでいると、
本尊のキツネの生命に、その人の畜生界の生命が感応して、その人の性格や行動、さらには人相まで似てきます。

本来ならば過去と将来を考え、理性をもって生きるはずの人間が、
畜生を拝むことによって計画性や道徳心が欠落し、人間失格の人生に変わってゆくのです。