本来でのゲームのネタの構成=本来での映画のネタの構成=人がのぞいてみたいと思う型
どこで切っても同じものなのだから、どこで参考にしようと(まねようと)同じ
そもそもこれは真似でも何でもない

逆に今の人間の作る作品はゲームも映画もどの媒体でも
逆にどこで切っても、ただ威圧、脅かし、グロで、内容は直線的
何故かどこで切ってもこっちはこっちで一致している

どこで切っても同じなのだからオリジナル作るも何もない
全体がグロ威圧脅しというオリジナルという見方もできるけれど

自分で分かって本来と異なるものを意図して作ろうとしているようにも見えない
単に、どう作ればいいのか分からないから、恐怖を与える=悲惨なものをぶつけると安易に結び付けて
そう思ってるように見える
しかもどう試行錯誤しても全然できない事を自分自身でも認識している

だから『恐怖は慣れる』とか『主人公を殺すと恐怖は消えるが敵が弱いと恐怖を与えられずそのさじ加減が難しい』だから”難しいんだ”等の発言が出て来るのでは
要するに自分でできないと言っている
一般論化して全体を巻き込んでるけど、実際は自分たちができないだけだから

それと、まず自分で面白さにつながる物を一つでも作れてから、人の言ってるものを面白さにつながるかどうか、思った方がいいのでは
どんなに試行錯誤しても面白いものを一つも作れない人間たちが、そんな事言える立場にはない事ぐらい分かるはず



そもそも映画もひどいけどゲームは元ネタ”再現”ってレベルのものも作れていない
ただのスキンだけ
映画もスキンと虐待だけだけど
ゲームはただ敵を対処して前進するだけの内容に、スキンで見た目変えただけで何も作れていないのだから
オリジナルを作るなどと言い出すような段階ですらない

映画もただ直進するだけだけど
最初に音を立てたら殺されると決まってて必死に守るだけとか

要するに現代人が全般的にどうかと