【反出生主義(古野祐一)の誕生】

1 反出生主義の系譜
人生が順調でなく、不遇に打ちひしがれている弱者
具体的に述べると、

◯容姿の醜さ
◯低学歴
◯低収入・無職
◯独身


などの生来の要因とそれに起因する現実に苦しんでいる弱者が、ある程度まで歳を重ね、もう我が人生はどうにもならないという段階にまで来たとき、
「なぜ自分はこれほどまでに惨めなのか」
「なぜ自分だけがこれほどまでに苦労しなければならないのか」
というルサンチマンを自己の究極的な由来である親と先祖に転嫁することによって、
すなわち自分の弱さを"私"以外の第三者の生殖による「不可抗力的な罪業の結果」として置き換えることによって正当化する、"最期の企み"を思いつく・・・。
こうして自己の"弱さ"という生きる上で逃れようのない責任を、負債を、責め苦を、打ち消そうとした・・・。
これがこの思想の端緒である。

11考える名無しさん2017/07/05(水) 22:56:02.560
2 信仰としての反出生主義
"(私が)生まれてこなかった世界"とは彼らにとっての"heaven"であり、信仰対象であり、
実は彼らが「自己存在の最高の肯定」を得るための虚構であるということを我々は見抜かねばならない。
なぜなら、
「生まれてくることは悪である」
「苦痛は全て悪である」
等の彼らの前提(教義ともいえる)を人類一般にまで拡張することは不可能であり、
思想にとって致命的ともいえる普遍性の獲得に失敗しているからである。
(「現に幸せな人たち」の存在を否定できない限り、その思想の普遍性を獲得することはできず、およそこの否定はア・プリオリに不可能であるからである。)
普遍性のない前提を据えた思想・・・
それは信仰以外の何物でもない。

そして、どうしても我々が見逃せないもう一つの事実がある。
「生まれてこなければよかった」という、一見すれば究極の自虐、これ以上にない自己否定とも思われるこの思想が、実は真逆の心理を孕んでいるということを・・・。
というのも反出生主義者は、
幸福な他者を「生まれてこなければよかった者」という自分と同じ存在にまで貶めることによって、
"幸福な他者"と"恵まれない自分"を相対的に同列のものと見做し、自己を肯定する。
(これほどまでに卑しい自己肯定の形式があろうか・・・)
常に彼らが妬み恨んでいる幸福な強者と同列に並ぶことは、悲しい哉、弱者にとって自己の最高の肯定の方法なのである。
反出生主義の前提によって初めて強者との間に精神的平等を勝ち得ようとする、この精神の賤しさ。幼稚さ。卑劣さ。
これを我々は見逃せずにはいられないのである。
こうして、
「反出生主義は幸せな人たち(強者)に対する弱者の復讐である」
という隠しきれない本質が見えてくる。

12考える名無しさん2017/07/05(水) 22:56:36.460
3 反出生主義という悲劇
そう、彼らは己の不甲斐なさ、自己嫌悪を克服し、生きるために「反出生主義」なる偶像を拵えざるを得なかった・・・。
弱い者は虐められ、蔑まれ、淘汰される一方、強い者のみが生殖を許される。
という生物学上の当たり前を顛倒せざるを得なかった彼らの悲劇・・・。

しかし本当の悲劇は、本来ならば、
「奴隷」「穢多・非人」「不可触民」「白丁」等の賎民階級として分類されていた彼らが、近代民主主義の発生によって自由競争に晒され、それに伴う社会保障制度の発達により生存を確保されてしまったことによって、
そのあまりにも弱い「弱さ」を直視せざるを得なくなった、その歴史である。